この悲しみもいつか幸せな思い出に2023年12月29日 14:06

友だちが逝ってしまいました。
(会社の先輩だったから、友だちと呼ぶのは失礼かもしれないけれど、会社員時代、
よく一緒に遊び、ともに夢を語り合った人なので…。)
共通の友人から訃報が届いた日は、なかなか眠れず、浅い眠りに落ちたと思ったら、
また目が覚めてしまって、そして、ふたご座流星群の時期だったと思い出しました。
バルコニーに出たら、大きな流れ星が夜明け前の空に向かってまっすぐきれいに流れました。
その流星の話は、この前に記事に書きましたが、友だちのことは書けませんでした。

病気だと打ち明けられたのは一年半前。私も障害のある甥の施設探しに奔走したり、
うつ病を発症したりで、なかなか連絡ができなかった時期で、
自分のほうが大変なのに、私のことを心配してくれるやさしい人でした。

亡くなった人は、姿が見えなくなっただけで、魂は決して滅びないとわかってはいても、
思い出が多すぎて、声を聞いたり、一緒に食事をしたりできないのが寂しくてなりません。
メールを読み返すこともできずにいます。今は悲しみが深くなるだけだから。
いつかそうしたすべての記憶が、幸せな思い出へと変わってゆくのかな…。

当たり前のことって、なにひとつない。家族も親戚も友人たちも、みんなそうですね。
どの人も、どの人との出会いも、かけがえのないもの。改めてそう感じています。

もうすぐ2023年が終わりますね。
ウクライナの戦争が長引くうちに、イスラエルとハマスの戦争が始まって、
この21世紀に信じられないような悲惨な状況になっています。
特に犠牲になっているのは子どもたち。本当に辛いです。
私たちは戦争をしている余裕はなく、協力して気候危機を解決しなければならないのに。
亡くなった友だちは、気候危機の問題を真剣に考えていました。
なにごとも、嘆くだけではなく、一歩踏み出すこと。私も、早く心身の元気を取り戻し、
もっと動いていきたいと思っています。
希望は、人の心とともにあります。

今年も、読んでくださってありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください。

ふたご座流星群と祖母のこと2023年12月13日 10:37

ふたご座流星群の季節です。
今朝5時半すぎに目が覚めて眠れなくなり、しばらくグズグズしていたのですが、
そのことを思い出し、バルコニーに出ました。
星が大好きなのに、いろいろあって、ちょっと忘れていたのです。

澄んだ冬の空に、明けの明星が明るく輝いていました。
すでに地平線はうっすらとオレンジ色を帯びているし、流星は見えないかな、と思った途端、
大きな流れ星が、夜明けに向かってまっすぐ流れていきました。
一瞬ですが、ほんとうに美しかった……。

それからしばらく、星空をみあげていました。
雲ひとつなく、名古屋にはめずらしく、たくさんの星々が瞬いています。
春の大三角も見えます。
だんだん夜明けのオレンジ色が明るくなってきました。
そうだ、夜明け前の空と明けの明星の写真が撮れるかなと、iPhoneを取りに中に戻り、
ふたたびバルコニーに出ました。

撮ってみたのがこちら。クリック拡大すると、なんとか、画面の上の方、中央少し右寄りに
金星が映っているのが見えるでしょうか。
(一眼レフのいいレンズだと、他の星々も映ると思うのですが、私のiPhone7では、
これがせいいっぱいです。)
明けの明星

そのあと、もう一度、その明けの明星のすぐそばを、星がひとつ流れました。
明るくなりゆく空でもはっきりと見えたので、深夜にはたくさん見えたかなと思います。
今年のふたご座流星群は、明日14日の深夜から15日未明がピークだそうです。
名古屋は雨の予報。なので、今夜、晴れているうちに、また見てみます。

今日は大好きな祖母の命日です。9歳の時に亡くなりました。寒い冬でした。
いまでも恋しく、とても会いたいです。
子どもだったかたでしょう。余命が短いことは最後まで知らされていませんでした。
もし知っていたら、お別れが言えたのに、どんなに大好きで大切に思っているか言えたのにと残念でした。
もちろん、周りの大人たちが、よかれと思って(子どもがショックを受けないように)
内緒にしたのはわかっています。それでも、言ってほしかったなぁって、密かに思います。
子どもって、大人が思っているよりずっと、物事を理解できるんですよね。
星がこんなに好きなのは、ひとつには、星々を見ると、亡くなった愛する人たちのことを感じられるからかもしれません。

魔女の一撃Part22023年10月30日 21:01

最初に私がその脅威を知ったのは、広告代理店に勤めていた20代前半。新入社員時代。
制作の雑用をしていた私は、よく制作の副社長室にも出入りしていました(手紙や書類を
届けるなど、本当に雑用)。
あるとき、副社長の秘書がぎっくり腰になり、一週間休みますと、人材派遣会社から
連絡がありました(秘書の方は派遣社員でした)。
植木鉢を持ち上げた瞬間だったと聞いています。
副社長、怒るとコーヒーや灰皿が飛ぶと有名な方で(蜷川さんみたいですね。実際に、
友人はそのシーンを目撃しました)、
そのときも、「一週間も休むなどとんでもない!」と激高され、彼女はクビに。
(今では許されないことですね。)
副社長に負けず劣らず、とっても怖い年配の女性でしたが、そんな彼女が打ち勝てなかった
ぎっくり腰。恐るべし、と思いました。

そのとき派遣会社から代理でやってきた女性が、そのまま副社長の秘書になりました。
彼女、さっぱりした性格で、私は大好きだったのですが、
あるとき副社長から理不尽に叱られたとき、「私、辞めます!」と宣言し、
荷物をまとめて、出ていきました。あっぱれ。
副社長、ドジな新入社員の私には優しかったです。おそらくあんまりおバカだったため、
怒る気がしなかったのでしょう。)

話を戻します。
その恐るべきぎっくり腰、その後、私が最初に目撃したのは、同じ会社でのこと。
ある日、同僚から電話がかかってきました。内線電話です。
「フーちゃん、すぐ来て! 今コピー室。動けない」
何事かとコピー室に急ぐと、コピー機に抱きつくように覆いかぶさっている同僚の姿が。
「ぎっくり腰やったみたい。すっごく痛い」
コピー機に張り付いている彼女をなんとか引き剥がし、支えながら、
同じビルにあった整形外科に。
診察の結果は、やっぱり「ぎっくり腰」
20代でぎっくり腰になるんだ、と、彼女も私もびっくりでした。
会社に戻ると、優しい部長が、タクシーで帰りなさい、とタクシー券を出してくれました。
(これも今ではないかな。いろいろとおおらかな会社でした。)

さて。私自身が最初にその一撃をくらったのは、会社をやめたあとの28歳のときです。
ある日シャワーを浴びていて、シャンプーの後、立とうとしたとき、腰に激痛が走りました。
同僚の一件で、すぐにわかりました。ぎっくり腰!
これか。ああ、どうしよう。一人暮らしで、助けは呼べません。
そのとき思い出したのが、住んでいたマンションと駅の間に、「カイロプラクティク」と
看板を掲げた整体院があったこと。そうだ。あそこへ行こう!
しかし、一糸まとわぬ姿で行くわけにはいきません。なんとか着るべきものを着て、
這うように行きました。
普通に歩けば3分で着く場所ですが、ものすごーく遠く感じました。)
何やら不思議な形のベッドに寝かせられ、思い切り背中を押された途端、
バキバキバキッと音がしました。
超痛かったけど、不思議なことに、起き上がることができ、まっすぐに立てました。
重いものを持ち上げるときは体の重心に近くして持ち上げること、
朝起きるときや、低い姿勢から立ち上がるときは、急な動きをしないよう気をつけること、
身体を柔らかくすること(ストレッチなどで)と指導を受けました。

その後、癖になったのか、何度もやるようになりました。友だちが接骨院をされている方と
結婚したので、もと同僚じゃないけど電話して(内線電話はありません)
「すぐ来てくださ〜い!」と泣きついたことは一度ではありません。
そんなわけで、魔女の一撃とは長〜い付き合い。
どうか、今後とも、お手柔らかにしてほしいものです。

『エンジェルス・イン・アメリカ』2023年05月26日 21:25


エンジェルス・イン・アメリカ

1993年8月、ニューヨークの友人宅に2週間滞在し、
ブロードウェイにオフ・ブロードウェイと、演劇三昧しました。
(ちょうどその月『星たちの祈り』が出版されたので、印税を全部はたいて。)
その年のトニー賞に輝いた『蜘蛛女のキス』と『エンジェルス・イン・アメリカ』も、
友人が頑張ってゲットしておいてくれました。
「エンジェルス・イン・アメリカ」は、当時、Part1のMillennium Approachesが
上演されていました。

現在、新国立劇場で日本版『エンジェルス・イン・アメリカ』の公演が行われていますが、
「ミレニアム迫る」と「ペレストロイカ」の2部合わせて8時間。
明後日、28日までで、来月には愛知県と滋賀県で上演されるそうです。
(早く知っていて、もっと体力があったら、行きたかったなぁ。)

ニューヨークで観た舞台は本当にどれも素晴らしかったのですが、
『エンジェルス・イン・アメリカ』にも強く心を揺さぶられました。
エイズが猛威をふるい、恐れられた80年代のニューヨークが舞台で、
ゲイの人たちへの迫害や人種や宗教による差別、薬物依存問題などが描かれています。
天使が降臨するシーンはいまも脳裏に焼きついています。
エイズ患者であるゲイの若者の寝室に現れるのですが、照明も素晴らしく
本当に天使が舞い降りてくるようで、美しかったです。
プレイビル(劇場で無料で配っているプログラム)は、何度も引っ越ししたせいか
なくしてしまって残念でした。
上の画像は、英語が聴き取れなかった部分を知りたくて、帰国してから
のちに見つけたシナリオです。脚本はトニー・クシュナー。

数年後、タイトルにあったミレニアム、2000年が訪れ、
今ではエイズも死の病ではなく薬や治療法もありますが、1993年当時、
コロナ禍が未来の世界を襲うとは想像もできませんでした。
そして、LGBTQ+への偏見は、現在、世界的に少しずつ市民権を得始めているといっても
依然根強く、日本ではまだ市民権を得ているとはとてもいえない状況です。
そのほかの差別は、かえってひどくなっているのではないかとさえ思えます。
その意味でも、『エンジェルス・イン・アメリカ』は、いまなお色褪せない輝きを
放っているのではないでしょうか。

ところで、『ママはシングル』にはゲイの男性が登場しますが、
〈サラファーンの星〉にもLGBTQ+の登場人物が何人かでてきます。
みんな脇役ですが、それとわかるようには書いていないので、
よほど勘の鋭い人でない限り、わからないと思います。
どんな物語でも、わたしはほんと好き放題というか、自分が興味をいだけるキャラクター
しか描いてこなかったので、彼ら彼女らもみんな好きで、ブログに書きたいと思いながら、
まだ果たせていませんが、いつか紹介しますね。

自閉症と青い花2023年04月06日 20:27

毎年4月2日は国連が定めた世界自閉症啓発デー。
日本では、自閉症だけでなくすべての発達障害を含めて、2日から8日までを
発達障害啓発週間としています。
自閉症のシンボルカラーはブルー。「癒やし」や「希望」を表すそうで、
名古屋のテレビ塔はきれいな青にライトアップされています。

こちらは、少し前に、お花屋さんで買ったデルフィニウム。
自閉症のシンボルカラーのブルーに合わせて写真をアップします。
本当に癒やされる青。大好きな花のひとつです。

デルフィニウム

自閉症って本当にわかりにくい障害で、昔、映画館で『レインマン』をみて
初めて知りました。
ダスティン・ホフマンが自閉症の青年レイモンドを演じ、トム・クルーズがその弟。
レイモンドは施設に入っているのですが、別れ別れに育った弟は、
兄の障害をまったく理解しないまま、ある事情があって、黙って連れ出してしまいます。
レイモンドは重度の自閉症。
こだわりが強く、融通はきかず、コミュニケーションもとれません。
大通りで横断歩道を渡っていて(青信号が歩くマークだからわかる)、
赤になって歩行禁止のマークが出ると、道の真ん中で止まってしまったり、
パンケーキを食べるときには最初にメープルシロップが出てこないと
食べることができなかったり、下着も決まった商品でないと絶対に身につけません。
自閉症の人は、音や触覚に過敏なところがあり、生地によってはちくちくして痛いとか
あるそうで(わたしも、洋服の襟元のタグがちくちくして、取ることがよくあるので
あんな感じかな、と想像します。)
レイモンドは、そうした特徴をよく表していると思いますが、わたしが
そうしたことを本当に理解したのは、そのずっとあと。
自分の姪と甥が自閉症だとわかってからです。
(「レインマン」をみた時は、まさか将来自分の身内に、同じ障害をもつ子が
生まれるなんて、想像もしませんでした。)

身内や身近に自閉症の子がいない人たちが、いかに自閉症をわかりにくいか、
(あるいは、発達障害全般をわかりづらいか)本当によくわかります。
自閉症の人は、見かけは普通の人と変わらないですし。

姪が生まれた時も、ごく普通の赤ちゃんに見えました。
成長も、最初はごく普通の子に見えました。
妹たちは神奈川県にいたので、めったに会えず、やがて妹が我が子が他の子と違うと
悩み始めたのも、知りませんでした。
なかなかオムツがとれなかったり、夜中に起きてはベビーベッドの上でひとりで歌ったり
家中の靴やスリッパを床に並べたり、言葉が遅く、話せるようになってもオウム返し
だったり、先生やほかの子どもたちとコミュニケーションがとれず、
幼稚園をクビになったり(おたくのお子さんはうちでは預かれません、と)。

久しぶりに姪と会ったとき、さすがにこれはおかしいと思って、妹に話しを聞き
妹が悩んでいるのを知りました。
お姑さんに、あなたの育て方が悪いと言われていることも。

心理学に詳しい友だちに、姪の様子を相談したら、
「それは、ものすごくわがままか、障害があるかどちらかよ」と言われました。
そして、障害児の教育の専門家を紹介してくれました。
その方は京都の先生で、妹夫婦と私とで、3歳になった姪を連れて訪ねて行きました。
そうして、先生に言われた言葉は、「◯◯ちゃんには障害があります」でした。
それを言われた瞬間、妹夫婦と一緒に泣きました。
「親が死んだあとのことを思うと…」と妹の夫が声をつまらせました。
先生は優しくおっしゃいました。
「泣いて下さい。どうぞ思い切り泣いて下さい。今はそれが必要ですから」
それは、ずっと悩んでいたわたしたちが、初めて感情を表に出せた場でした。
いまも、そのときのことを鮮明に思い出します。

そのころ、妹のお腹には次の子がいて、実家の岐阜に帰省していました。
それから、私も一緒に障害について勉強しまくり、京都の先生に紹介していただいた
岐阜大学の先生を訪ねたり、自閉症に関するあらゆる講演会に行きまくりました。
姪のことで駆け回るうちに、生まれてきた甥も、やがて同じ障害があるとわかります。

自閉症は、脳の機能障害で、自分の殻に閉じこもっているわけでも、
親の育て方が悪いわけでもありません。
脳の機能の一部が正常に働かず、他の人の気持ちを察することができなくて、
それゆえ、コミュニケーションが苦手だったり、言葉がうまく話せなかったり、
排泄の感覚がわかりにくくて、オムツがなかなか(あるいはまったく)
とれなかったり、こだわりが強く、予定外のことが起こると対応できず、
パニックを起こしたりします。

けれども、その特性を知って、接すれば、少しずつ学んでいったり、
コミュニケーションも取れるようになっていきます。
もちろん、難しいこともたくさんありますが、
好きなことには驚くほどの集中力を発揮したり、
中には、芸術的なセンスが優れている人もいます。
カメラアイといって、見たものを記憶する力が優れていることもあります。
姪や甥も(言葉をうまく話せないからそれを伝えることはできませんが)、
一度会った人は覚えていたりします。
なんでもすぐ忘れちゃうわたしより、ある意味、ずっと記憶力がよいです。

自閉症をはじめ、発達障害を抱える人が、少しでも理解されて、
生きやすい世界になるといいなと心から願っています。
社会的に弱い立場いいる人たちが生きやすい世界、寛容で温かい世界は、
きっと、誰にとっても生きやすい世界に違いありません。

同級生はヤングケアラーだった2022年09月06日 17:54

ニュースなどで、ヤングケアラーという言葉をよく聞くようになりました。
病気や障害のある家族のケア、普通は大人がするような家事や介護、
心のサポートなどをしている18歳未満の子どものことです。

小学生のとき、同級生にNちゃんという子がいました。
独特の気の強さがあって、内気なわたしはちょっと苦手だったのですが、
彼女が学校を休んだ日、給食のパンと宿題のプリントを届けに行くよう
先生に頼まれました。家が近所だったのです。

古い木造のアパートを訪ねていくと、
Nちゃんが、赤ちゃんをおんぶして出てきました。
狭い二間続きの部屋に、敷きっぱなしの布団が並んでいて、
そのひとつに誰かが寝ているのが見えました。
お母さんだったのでしょう。なんだか具合が悪そうでしたが、
まわりでは、幼い弟や妹たちが飛び回っています。
Nちゃんは、ちょっと怒ったような迷惑そうな顔で、
パンとプリントを受け取ると、きょうだいの世話に戻っていきました。

その間、5分もなかったと思います。
でも、すべてがあまりに衝撃的で、時間の感覚をなくしていました。
Nちゃんが、ちょっと怒ったような顔をしたのは、
自分の家の事情を、知られたくなかったからだと思います。
わたしは、なんとなく、話してはいけないような気がして、
長いあいだ友だちにもいえませんでした。

ヤングケアラーの存在が、あまり知られてこなかったのは、
人に迷惑をかけたくない思いや、恥ずかしい思いがあったりして
話せなかったり、ケアラーがあまりに幼いと、誰かに相談する、
ということすら思いつかないから、ということがあるのかもしれません。

Nちゃんは勉強が得意ではなかったけど、あの状況では、
勉強する時間なんて、まったくなかったはずです。
友だちもいなかったけど、それは、親に代わって家事をしたり、
幼いきょうだいの世話をしていたからだと、今ならわかります。
本当は、ほかの子と同じように、友だちと遊んだり、勉強したり、
将来の夢を描きたかったのではないでしょうか。

コロナ禍の今、ヤングケアラーは、以前よりもずっとたくさん
いるのではないでしょうか。
他人事ではないと感じています。
妹の子どもたちは、二人とも障害を持って生まれましたが、
もしも片方が健常児だったら、
もう片方は、ヤングケアラーになっていたかもしれません。

日曜日、ヤングケアラー協会の宮崎成悟さんの記事が新聞に載っていました。
宮崎さんは、自らもヤングケアラーであった経験から、
子どもたちが困ったときに気軽に相談できる「お守りのような存在」が
必要だと話されていました。
同じ境遇の仲間と出会って、協会を設立したそうです。
現在、ヤングケアラーが子どもでいられる時間や、夢を諦めない社会を作るため、
いつでも気軽に悩みを相談できるLINEの窓口を開設したり、
ヤングケアラーのことをもっと世間に知ってもらえるようなコンテンツを
発信するため、こちらでクラウドファウンディングを募っています。
↓↓

子どもたちは、世界の未来であり、宝物です。
これから、この社会を導いてゆくのは、子どもたちなのです。
子どもらしい時間を過ごすことで、心が豊かに成長していくと思うし、
大人が本気で気にかけたら、子どもは、人を信用するようになるでしょう。
人から助けられた子は、人を助けるようになります。
助けを必要としている子どもたちをサポートしていける社会を、
「誰ひとり取り残さない社会」を、みんなで築いていけますように。
子どもたちが、家の事情のために、夢をあきらめたりすることがありませんように。

薔薇水晶2020年08月27日 09:34


薔薇水晶

『ユリディケ』は児童文学の出版社から出たからか、小学生や中学生のお子さんから
ファンレターをもらいました。
可愛らしい文字で一生懸命書いてあるお手紙は、どれも心がこもっていて、嬉しかったです。
どなたにもお返事を書きました。

たいていはそれで終わるんですけれど、時には、その返事に返事が返ってくることがあり、
しばらく文通をしたお子さんたちもいました。

この薔薇水晶は、最初は小学生だったひとりの女の子が、お守りにしてねといって
贈ってれたもので、いまも大切に持っています。
ローズクォーツというのが一般的ですね。ほかにもいろいろ呼び名があるようですが、
なかでも、薔薇水晶という響きが好きです。

小学館の雑誌に、きたのじゅんこさんと連載をしていたとき、この水晶をテーマに
小さな物語を書きました。遠いアトランティスの姉妹の物語。

石には幼いころから惹かれてきました。
生まれ故郷の岐阜には、大理石の山があったり、鉱物がたくさん取れる山もあるようです。
子どものころ、近所にあった、砂利が敷きつめられた空き地には、色んな色の石が
ころがっていて、探すのが楽しかったのを思い出します。
そんなこともあって、わたしの物語には鉱物がたくさん出てくるのかな。

先日また耳の検査に行ってきて、いまの漢方薬での治療を二か月か三か月続けることに
なりました。
完治の可能性は30%と言われたので(「治るって言ってあげたいんだけどね」と優しい
先生)、その30%に滑り込むよう、しっかり静養しようと思います。
そんなわけで、いままでできなかったことをしています。
友だちに手紙を書いたり、本を読んだり、録画してあった番組を見たり。
体温を超える気温が続いていたので(エアコンを入れても家の中が30度以上!)
それも少しずつ、ですけれど、心も身体もほぐれるような気がします。

本当に、こんなにのんびりしたのは、10年ぶりぐらいかなぁ。
ほとんど小説が読めなかったので、この機会にと、たまっていた本も
ゆっくり読んでいます。
(エッセイは読めるのですが、執筆中は自分の物語に集中しているため、小説は
読めないんですよね。話が頭にぜんぜん入ってこないんです。)
それで、ここ数日読んでいた本に、ローズクォーツが出てきたのでした。
その本のことは、またいつか書きますね。

春合宿お菓子事件2020年07月03日 19:49

前回、実印をうっかりゴミに出してしまった幼なじみの話を書きましたが、わたしも
人のことを言えないほど、ドジでうっかり屋です。

20代のころは、酔っ払って電車の網棚にバッグを忘れて降りて、家に入れなかったり、
酔っ払って、つり革につかまって眠っていたら、目の前のビジネスマンに
「お嬢さん、どうぞ」と席を譲ってもらったり(すごく恥ずかしかったけど、
あまりに眠くて座らせてもらいました)
酔っ払って、地下鉄の階段から転げ落ちたり。(ドジというか、酒癖が悪い??)

お酒に強くないのに、若い頃はつい飲んで、たぶんほかにも忘れている
失敗談がいっぱいあります。
サラファーンの物語には、お酒に強い人たちがいっぱい出てくるけれど、
あれは憧れですね。
わたしは全然ダメで、何度かそんな痛い目に遭い(階段から落ちたときは、
文字通り痛かった)分をわきまえるようになりました(注:飲まなくなりました)。

さて。運動音痴にもかかわらず、大学時代、体育会アーチェリー部に
入ってしまったわたし。
これは本当にドジでうっかりなことでした。そのため、
文学好きだったのに、アーチェリーに明け暮れる日々を送ることに。

体育会ということで、とっても厳しくて、たとえば、練習中に弦が切れて、換えの弦を
持っていなかったり、矢が壊れて、予備の矢が足りなくなったりしたら、
学年の全体責任となり、みんなでランニングさせられたり、長時間正座させられたり
しました。
先輩たちへの挨拶も、射場への挨拶も、きちんとしないと、同じです。
もしかして、いまは罰なんてないかもしれないですね。
でも、当時はそれが当たり前でした。
今も、練習中や試合で矢が足りなくなって、真っ青になる夢を見ます。
(夢から覚めると、本当にほっとします。もうかなりのトラウマ。)

合宿は個人戦の前の夏と、関東学生リーグ戦の前の春、年二回です。
夏は男女合同ですが、春は女子だけでYAMAHA(弓では有名です)のある浜松で
行われました。

さて。それは、二年生に上がった春合宿での出来事。
練習を終えて宿に帰り、休憩時間に、班ごとに別れた部屋に入ると、
畳の上のテーブルに、きれいな包みがのっています。
「わあ〜」と言って、開けてみると、美味しそうなクッキーが。
そのとき、部屋には四人ほど同級生がいたので、「食べよ〜」といって
みんなでいくつか食べました。

その夕方。一日の日程が終わったあと、先輩が集合をかけました。
なんだろう?
みんなでドキドキしながら正座して、先輩が話すのを待ちました。
女子リーダーより怖〜い鬼の副リーダーYさんが、重々しく口を開きます。
「今日、OGの誰それさんが、差し入れのお菓子を持ってきてくれました」

そこまで聞いた瞬間、思わず「あっ!」と叫んでしまいました。
わたしが包みを開けちゃった、あのお菓子!!

そのとたん、Yさんがぷーっと吹き出しました。
そして、先輩たち全員、畳の上で笑い転げてしまいました。
それから、Yさんが、
「無断で食べたものがいる。名乗りなさい、と言うつもりだったのに!
怒れなくなっちゃった!」と涙を流して笑いながらいうのです。

もうわたしは、穴があったら入りたいというか、
ひたすら謝ったのですが、先輩たちは、「いいよ、いいよ、もう。
あんまり馬鹿正直に、『あっ!』なんていうから、拍子抜けしちゃったよ」

そして、そんなことは今まで一度もなかったのですが、お咎めなし。
同級生にも「チョンボかと思った。助かったよ」と感謝(?)されました。

それにしても、わたしときたら、いったい何を考えていたのでしょう。
部屋のテーブルに、見知らぬ包みが置いてあったら、普通、絶対に
開けたりしませんよね。
あのときのことを思い出すたびに、
いまだに、自分のおバカな頭の構造が、まったく理解できません・・・。

みなさんも、見知らぬお菓子には、くれぐれもお気をつけくださいね。