ワードの反乱〜アクセス権がありません2020年06月10日 16:46

ワープロソフトはワードを使っています。
最初に買ったパソコンがウインドウズだったから、自然とワードを使うようになって
Macにしたあともずっと使っています。

今年、数年ぶりにワードを買い替えたのですが、
使い始めて二か月ほどたったときのこと。ファイルを開こうとしたら、
「アクセス権がありません」と言われ(画面にそう警告が出て)、
突然、開けなくなりました。

え〜、困るよ。だって、これはわたしのファイルなんだから、アクセス権はわたしに
あるはずだよぅ。

あわてて、マイクロソフトのサポートに電話したら、とっても親切な女性が出て、
遠隔サポートで、すぐに解決してもらえました。
自分がなにもしなくても、Macの画面が魔法のように動くのは、感動ものでした。
(でも、ちょっぴり怖い気も…。だって、スパイ映画なんかでよく、
誰かのパソコンに侵入して勝手に動かしちゃうけど、あんな感じなんです。)

まあともかく、そんなわけで、あっという間に解決してもらって、しかも、
購入三か月以内は無料ですと言われ、お財布もいたまず、めでたし、めでたし。

・・・と思ったら!
先日、ファイルを開こうとした際、またまた「アクセス権がありません」とのたまう
ではありませんか。
最近のファイルは開けるけれど、少し前のファイルが、ことごとく開けないのです。

サポート無料の三か月は過ぎています。
有料サポートっていくらいるのかなぁ。きっとすごく高いだろうなぁ。
聞くのも怖く、そうだ、再起動したらどうだろう?と、素人考えでMacを再起動。

気を取り直して、あらためてワードを開いてみました。
すると、なんてこと。立ち上げた途端に落ちてしまいました(T_T)
さっきよりいっそうひどい状態です。

わ〜んと泣きそうになりながら、ネットで、ワードが落ちる、と検索すると
古い形式のファイルを使っていたり、混在したりしていると、
そういう状態になることがあるので、新しいファイル形式に揃えるべし、
との記事を発見。

わあ、まさにわたしのファイルがそう。ほとんどが古い。
でも、ファイル形式を揃えるには、立ち上げなければなりません。
しばし悩んで、なにも方法が思いつかなかったので、しょうがないなぁって
もう一度やってみたら、なぜか立ち上がる。
わわ。この機会を逃してはなりません。
ためしに、現在ちゃんと開くファイルの形式を、新しいのに変えてみました。
それから、さっきまで「アクセス権がありません」といわれていたファイルを
おそるおそるクリックすると、魔法のように開きました♫
なんてありがたい!

本当に不思議ですね。
それからは、新しいファイル形式を使うようにして、日々無事に過ごしています。

ワープロソフトは、大切な仕事のパートナー。
ワードさん、これからもどうぞよろしく。
そして、どうぞお手やわらかにお願いします。

亡くなった人は生きているときよりずっと近くにいる〜『盗賊と星の雫』より2020年05月06日 00:08


大好きな伯母と

4月最後の日曜日、大好きな伯母が急逝しました。
もう十日になるけれど、いまだに信じられないでいます。
あまりに突然だったから。

伯母は母の姉で、母ととっても仲良し。母の実家の鳥取にいました。
長女(わたしの従姉)はわたしと同い年で、夏休みにはよく遊びに行き、
妹もわたしも、すごく可愛がってもらいました。

鳥取砂丘や、人のいないとっておきの海岸に連れて行ってもらって、
どこまでも透明な海に感激したり、かや(テントみたいな蚊よけの布。
天蓋つきベッドのように、布団の上につるもの)の中で一緒に寝たり、
伯母の素朴な家庭料理も美味しくて、思い出がいっぱいあります。

伯母は9人兄弟のちょうど真ん中。
わたしの母は末っ子で、やはりとても可愛がってもらったそうです。
そんな大家族のなか、伯母は、一族の語り部のような人で、
戦争や鳥取大地震を経験して、さまざまな家族の歴史を知っていて、
事実は小説より奇なり、ということを、実感させてくれる話の数々に
いつもドキドキしたり、ワクワクしたり、ゾクゾクしたり。

わたしは実際あったことは、ほとんど小説に使いませんが、
伯母や母から聞いた、祖父の情熱的な恋物語は、ダン伯父さんの
プロフィールに投影しています。
また、別の親せきで「歌舞伎役者のようないい男」だった人の駆け落ちの話や
戦後満州から命懸けで日本に帰ってきた人の話も、すごくドラマチックでした。

そんな伯母でしたが、自分の話はほとんどしませんでした。
早くに夫を亡くし、そのご事情があって子ども達と別れて暮らしていたので、
どんなに寂しかったかと思うけれど、人生の苦労を静かに受け止めていました。
やがて、鳥取の実家で父親を看取り、妻に先立たれて戻ってきた兄も看取り、
ほかの身内の面倒もとてもよくみて、無償の愛で尽くす人でした。

一人暮らしだった晩年、従姉がハワイのアメリカ人と結婚しました。
その人が、もう信じがたいほど温かな男性で、
冬のあいだ、ハワイの従姉夫婦の家に滞在するのが、伯母の習慣になりました。
(写真は数年前ハワイを訪ねた時のものです。)
従姉は、子どものころは一緒に暮らせなかったけれど、
その分も思い切り親孝行して、伯母は本当に幸せだったと思います。

この前の冬もハワイで過ごし、従姉が3月に送ってきて
帰国後2週間、従姉とふたり、家で自主隔離していました。
その期間が無事に過ぎ、従姉がハワイに帰って2週間あまり。
従姉が前日電話したとき、少し気分が悪いから休むと言っていたそうです。
そのまま眠るように旅立ったのだと思います。
日曜日、近所の友人が電話に出ないと警察に通報してくれてわかりました。
検死の結果は、心臓の急な病とのことでした。

葬儀に行くつもりで、鳥取に発つ用意をしたのですが、わたしたち親族は
特別警戒都道府県である、東京や愛知や岐阜に住んでいます。
みんなで話し合って、行くのを控え、
鳥取の親せきと長男夫婦だけでの葬儀となりました。
最後にひと目会ってお別れしたかったけれど、誰よりも飛んで来たかった人、
ハワイの従姉が、帰国のすべがなくて、会えなかったことを思うと、
そのことが一番切なかったです。

でも、そんな悲しみの中でも、昔からずっと思っていたことがあります。
「亡くなった人は生きているときよりずっと近くにいる」ということ。
だって、身体がないから。魂は自由に羽ばたけるから。

子どもの頃から人の死を身近でたくさん見てきて、
自然とそう感じるようになりました。

『盗賊と星の雫』で、ヨルセイスは、両親を殺された幼いルカに
その言葉をいいます。
(ヨルセイスも、孤児として、とても寂しい思いをしてきたのです。)

そうはいっても、大切な人の死は、なによりも辛いです。
その人の声を聞いたり、姿を見たり、手をつないだり、ふれたりできないから。
そのことは、永遠に寂しいです。
でも、それは、その人が、それだけ大切な存在だったという証。
愛した分だけ、悲しみも深い。

従姉は帰国できなかったし、伯父や従兄弟たちも、母もわたしも
コロナウイルスのせいで葬儀に行けなかったけど、
ひとつだけ、よかったと思えたことがあります。
それは、いつも、帰国しても仕事で忙しく飛び回っている従姉が
自主隔離のために、二週間たっぷり伯母と過ごせたこと。
ふたりで、こんなに一緒にゆっくりしたことないね、と話していたそうです。
伯母も、どんなにか嬉しかったことでしょう。
伯母のやさしい笑顔が、浮かんできます。
今夜、夢であえるかな……。

ムーミンの消印2019年08月24日 17:48


ムーミンの消印(フィンランドからの手紙)

先日ポストを開けると、可愛いムーミンの絵はがきが届いていました。
フィンランドからのエアメイル。
しばらく会っていなかった友だちからで、インクで書いたきれいな手書きの文字と
やさしい文章に、心がほんわりとあたたかくなりました。
切手もムーミンで、消印もムーミン。
ちょっとわかりにくいけれど、消印のムーミンは、背中に郵便袋をしょった
郵便屋さんのスタイルです。クリック拡大するとわかるでしょうか。

手紙は、書くのも読むのも大好きです。
学生のころから、手紙魔でした。
いまはつい早くて便利なので、Eメールを使ってしまうけれど、やっぱり手紙は
なんていうか、お互いの体温を感じられるし、
時間のかかるところもまた愛おしいのです。
絵はがきや、封筒、便せん、封をするシール、切手をコーディネートするのも
うれしい時間です。
葉書や便せんを手作りすることもあります。

サラファーンの星の中にも、たくさんの手紙を登場させました。
つい長く書きすぎたり、要らない手紙も書いたりして(もちろん、書いた時点では
必要だと思ったのです)ずいぶんカットしましたが
こんな手紙が行き来していたんだろうな、と思いながら、
紙の質感や、インクの匂いなど想像して書くのは、とても楽しい作業でした。
(中には、その人の最後の手紙となるような、辛い手紙もあって、
そんなときは、とても悲しくなってしまいましたが。)

郵便屋さんが走っているのを見ると、うれしくなります。
拍手を送りたくなるくらい。(実際、心の中で送っています!)
物語中、郵便馬車が走るシーンはたくさん出てきますが、
書きながら、ひづめや車輪の音、郵便ベルの音が聞こえてくるようでした。

あの日、宇宙に一番近い学園都市で2019年06月29日 20:23


JAXAスペースドーム photo by fumiko

東京の広告代理店に勤めていたころ、同僚が物語のアイデアを真摯に聞いてくれた話は
先月「あなたを信じる人が世界にたったひとりでも」に書いた通りで、
彼女がわたしを信じてくれて、最初の本『ユリディケ』は生まれました。

彼女は結婚し、その後、学園都市つくばに引っ越しました。
ご主人が、つくば大学の教授で、AIの音声認識を研究されていたからです。

つくばには、何度も遊びに行ったのですが、ある日わたしは、彼女と広大な学園都市を
歩きながら、当時頭の中にあった物語、『ユリディケ』の二千年前の物語を
延々と語りました。
何度も生まれかわってめぐりあう恋人たちや、ある音楽一家の三代にわたる物語と、
何千年にもわたる時を生きる不老の民の歴史が交錯する、生と死、愛と葛藤、
喪失と再生、テクノロジーのもたらす繁栄と破壊、そして、世界の終わりが
迫る中での、絶望と希望の物語を。

長大な物語なので、彼女に話したストーリーラインも、とても長いものでした。
それでも、彼女は長い散歩の道すがら、ずっと熱心に耳を傾けてくれて、そして、
面白いと言ってくれたのです。
それが、サラファーンの星四部作でした。
長い長い話だから、退屈する人だってたくさんいるでしょう。でも、彼女は、心から
真剣に聞いてくれた。もちろん、友だち思いの優しい人だからこそですけれど、
そのことは、わたしに大きな勇気と希望を与えてくれました。
やがてわたしは、さまざまな事情で何度も中断しながら、その物語を少しずつ
書き継いでいくことになります。

かつて会社で『ユリディケ』のアイデアを聞いてくれたときとともに、あの日、
四部作のアイデアを聞いてくれた彼女には、いまも、本当に感謝しています。
『ユリディケ』誕生の女神さまは、サラファーンの星誕生の女神さまでもあるのです☆

上の写真は、会社のもと同僚三人とつくばを訪れたとき、
宇宙が大好きなわたしたちのために、彼女とご主人が案内してくれた
JAXA筑波宇宙センターのスペースドーム。
見応えたっぷりのガイドツアーに参加しました。
宇宙大好きな人には、おすすめです!(予約してお出かけくださいね。)

あなたを信じる人が世界にたった一人でも2019年05月07日 20:55


デルフィニウム優しい友のような清楚な花 photo by fumiko

最初にユリディケのアイデアが浮かんだとき、わたしは広告代理店に勤めていました。

いつか物語を世に出したいという夢を、そっと胸に抱きながら。

わたしの仕事は、制作局の雑用係。社内外の郵便を配るのも仕事のひとつです。

制作の副社長室にも手紙や書類を届けるうちに、副社長の秘書と言葉を交わすように

なりました。

 

少し年上で、音楽を愛する彼女は、ひかえめだけど、よく笑い、冗談も大好き。

なにごとにもとらわれない自由な人で、

世間の常識よりも、自分の思いを大切にしていました。

副社長は少しばかり気難しく、激高することがあり、社員から怖れられていましたが

(目撃情報によると、しばしば、コーヒーや灰皿が宙を飛んだ)

彼女はそんな副社長に対しても、あまりに理不尽で間違っていると思えば、

とてもおだやかに、でも堂々とそう指摘する人でした。

副社長も、そんな彼女の言葉を、はっと我に返ったように素直に聞いていたようです。

 

彼女はまた、正直で、つねに前向きな人でした。わたしは、そんなところにも惹かれ

いろんな話をするようになっていきました。

そしてある日、心の中で徐々に形をとりつつあるファンタジーのことを話したのです。

もう夢が、心をいっぱいに満たして、あふれんばかりになっていたので……。

 

わたしは、それがどんな物語かを話しました。

それを本にして、わたし自身が物語を追いながら感じているときめきを、喜怒哀楽を、

読む人にも感じてもらいたい、心から楽しんでもらいたいと話しました。

そして、目に見えないもの、愛や希望、やさしさの大切さを感じてもらえたらと

願っていると。

 

熱心に聴いてくれたあと、彼女はいいました。

「素晴らしい夢ね! きっと実現するわよ」

心からそのことを信じて、いってくれているのがわかりました。

 

そんな夢みたいなことを、と笑ったりせずに、

わたし以上にわたしのことを信じてくれる彼女の存在が、どれほど心強かったことか。

そのおかげでわたしは、どうせ書けるはずないよね、などと余計なことを悩んだりせず

まっすぐに創作に向かえたのです。

 

自分の力不足に落ち込むことも、数え切れないほどありましたが、そんな時も、

彼女はいつも応援してくれました。絶対にだいじょうぶ。あなたならできる、と。

本当に、ユリディケ誕生の女神さまです。

 

どんな夢でも、同じ。

誰か、世界でたった一人でも、自分のことを信じてくれたなら、人はきっと頑張れる。

その夢を実現できる。

そしてまた、人生に絶望したときも、誰かたった一人でも、気にかけてくれたなら

人は生きていけるのではないか。そう思っています。

創作事始めPart2〜女子校時代 初めての小説2019年05月05日 17:16

高校一年の冬休み。原稿用紙80枚の小説を書くという課題が出されました。わたしの通った慶応女子高校は、夏休みなどの宿題を出さないという方針で、三年間で唯一の課題が、その一年生の冬の小説でした。

 

前回のブログで書いたように、中学の時、友だちの影響で短編のまねごとを書いていたわたしにとって、それは楽しい宿題でした。

思春期の少年の友情と生と死をテーマにして、『水の環』という作品を書きました。

そして、初めてある程度の長さの短編を書けたことに気をよくして(?)

次々に短編を書いては、クラスメイトの何人かに回して読んでもらうようになったのです。

 

殺人事件を扱ったミステリーが多かったように思います。

クラスメイトはやさしくて、面白いね、といってくれて、やっぱり

「豚もおだてりゃ木に登る」。中学時代、友だちに褒められたのと同じで、

どんどんいろんなジャンルの話を書きました。

文章はひどいものでしたが、アイデアだけは次から次へと湧いてきて、尽きることは

ありませんでした。

(これはいまも変わっていません。アイデアは浮かぶけど、文章にはほんと四苦八苦!

恐ろしいほど推敲します。もっとすらすら上手に書けたらなぁ。)

 

ただ、クラスメイトたちから、一度だけ、総スカンを食らったことがあります。

純真なヒロインが殺人の濡れ衣を着せられ、悪い奴らが逃げ延びる、という物語を書いたときです。

十六歳のわたしは、フランスのフィルム・ノワールのような、どこかダークな結末を、

ちょっと背伸びして書いてみたかったのですね。結局、自分でも好きになれなかったな。

まあ、あんな作品を書くのは、一度でいいです。

 

大学に入ると、アーチェリーの練習に明け暮れて、創作活動をする余裕はなくなりましたが、
たくさんの短編を書いた高校の三年間と、それを読んでくれた友人たちのあたたかさが、
今につながっているのだと思います。みなさん、本当にありがとう。