母の入院。そして退院 ― 2025年04月12日 10:02
ちょうど四週間前の土曜日でした。
母が部屋で転倒し、大腿骨を骨折しました。
前にわたしが胸椎を骨折した際は、母が救急車に付き添ってくれたのですが、今度は逆。
救急隊員の方々には、今回も大変お世話になりました。ありがとうございます。
家族の非常事態ですので、具合が悪いなどとは言ってられません。
アドレナリン出まくりで、身体も動きます。
妹も飛んできて、一緒に先生の説明を受け、月曜には人工骨頭を入れる手術で、
翌日からリハビリが始まりました。
コロナが五類に移行するまでは面会禁止だったそうですが、幸い、毎日面会でき、
届け物をしたり、洗濯物を受け取ったりする時、顔を見ることができました。
先生はとても前向きで、母より高齢の方が、先日リハビリ頑張って2週間で
退院しましたよ、とおっしゃり、「それを目指しましょう!」と頼もしく、
その明るさに救われました。
また、介護申請をしたほうがいいと言われ、区役所に手続きに行きました。
福祉課で手続きをしたあと、地域包括支援センターに相談に行くよう言われ、
翌日、妹と二人で行ってきました。
障害福祉のことは、姪と甥が自閉症スペクトラムだったので、手続きが煩雑なことや
ソーシャルワーカーの方が忙しくてなかなか見つからないということも知っていましたが
高齢者福祉も一緒で、ケアマネさん不足で探すのが大変だと知りました。
制度も色々な決まりがあって、とても複雑です。
「二つの脳は一つよりよい」と言いますが、妹と私の脳では、どうも足りないようで、
1時間以上、いろいろと説明を聞きましたが、頭がパンク状態になってしまいました。
でも、相談に乗ってくださったスタッフの方が、とっても頑張ってくださって、
翌週には奇跡的にケアマネさんが見つかり、
母が退院したら、訪問リハビリと福祉用具の方たちと一緒に、我が家で母の様子を
確認しながら、担当者会議を開くことになりました。
介護認定が降りるのは一か月くらい先になるそうですが、
待ったなしの状況なので、先に動きます、と言われ、
本当に、みなさんに素早く動いていただけて、ありがたかったです。
わたしの方も、今後、母が生活しやすいように、家を整えなくてはなりません。
(母の部屋よりわたしの部屋のほうがトイレに近いので)
部屋を取り替えることにして、自分で動かせる小さな家具は移動し、
クローゼットやチェストなどのタンスは、中身だけ入れ替えることに。
こんなとき、魔法が使えたらなぁ。指をパチンと鳴らすだけで入れ替わったら、
どんなに楽でしょうね。
けど、魔法使いではないので、病院や地域のソーシャルワーカーの方々との連絡の合間に
少しずつすすめていきました。
母は膝も悪くてもともと杖を使って歩いていたので、どうなるか心配しましたが、
そうこうしているあいだに(結局、服の入れ替えは、まだまだ道なかばです)
リハビリをかなり頑張って、数日前、無事退院してきました。
杖を使って歩行できるようにならなければ、リハビリ専門病院に転院と聞いて、
家に帰りたい一心で頑張ったそうです。
退院の翌日には、ケアマネさんたちがいらして担当者会議を開き、福祉用具の方は
さっそくお試しのシャワーチェアを置いていってくださり、その日からシャワーが
できて、とても助かりました。
そして、その翌日から、ベッドの柵や、据置式のトイレの手すり(もともと手すりを
つけていたのですが、位置が高すぎて役に立たなかった)、家の中の歩行器や
四点杖が順次届き、また、廊下に手すりをつけるため、福祉用具の方が、建築士の方を
呼ばれ、一昨日には、最初のリハビリも始まりました。
なんだか嵐のような四週間でしたが、今日は週末で、久しぶりにゆっくりできています。
母は、入院中は検査やリハビリや面会の時間以外は、退屈だったそうで、
「退院してからのほうが忙しかったわ」と言っています。
怪我人は、治すのが一番の仕事ですから、病院で静かにしている時間も大切だったと
思います。
救急隊員の方々、病院の先生や看護師さん、理学療法士さんなどのスタッフの方々、
福祉用具や訪問リハビリの皆さん、区役所や地域包括支援センター(名古屋では、
いきいき支援センターと呼んでいます)の方々に支えていただき、
なんとか母も家で生活していけそうです。感謝の気持でいっぱいです。
それにしても、去年のわたしの入院と重ならなくて、本当にラッキーでした。
わたしが退院してから、化学療法に通院している間も、副作用で動けなくて、母が
すべての家事を引き受けてくれたので、もともと膝が悪かったところにもってきて、
それで負担がかかって、骨が折れやすくなっていたのかなと思います。
お母さん、ごめんね。
副作用もずいぶん軽くなってきたので、これからは、福祉の方々の力をお借りして、
わたしが頑張ろうと思います!
少し落ち着いたら、仕事にも戻れると思います。
待ってくださっている方がいらしたら、ごめんなさいね。
家族の危機に、うつ病の妹も、がんばっていろいろと手伝ってくれて、ありがたいです。
妹は疲れが出ると、膀胱炎を発症するので、心配ですが、
みんなで力を合わせれば、なんとかなるかな、と思っています。
病院や区役所に通う際、桜が蕾から日々開いていく様子や、新緑が少しずつ芽吹いていく
様に、心が慰められました。
冒頭の写真は、雨の日、バスを待つときに見かけた白い花。名前はわからないのですが、
雨粒を宿して、清楚な風情に惹かれました。
追記:優しい友人がこの花の名前を教えてくれました。
リキュウバイ(利休梅)といって、古くから茶花としても親しまれてきたそうです。
壁を築くより橋を架けよう〜ローマ教皇の思い ― 2025年04月23日 10:20
フランシスコ教皇が亡くなりました。
最近体調を崩されているとの報道に、いつかはと覚悟していましたが、
世界をよりいよい場所にしようと奔走した方が、またひとり天に召されてとても悲しいです。
分断を深める社会にあって、常に和解と平和を求め、自らの行動と言葉で
それを示した人でした。
「壁を築くことだけを考え、橋を架けようとしない人は、キリスト者ではない」と訴え、
広島と長崎を訪れたときは、核兵器廃絶のメッセージを世界に届けました。
茶目っ気のある人柄や、チャーミングな笑顔、貧しい人、弱い立場の人に寄り添う姿勢や
びっくりするほど慎ましやかな性格に、親しみを覚えた人は多かったと思います。
『旅するローマ教皇』という、フランシスコ教皇のドキュメンタリー映画があります。
抗がん剤治療が終わって、家で休んでいるとき、ソファに横になりながら
WOWOWで録画しておいたその作品を観ました。
映画は、遭難した船からの信号を沿岸警備隊かどこかが傍受するシーンから始まります。
それは、リビアからイタリア最南端のランペドゥーサ島へ難民を運ぶ船でした。
多くの犠牲者が出て、後に教皇がランペドゥーサ島を訪れ、鎮魂の祈りを捧げるシーンで
初めて教皇が画面に登場します。
世の中の無関心、不寛容に胸を痛める教皇の姿が印象的な冒頭です。
50カ国以上を周り、刑務所の受刑者とも触れ合い、イスラム教や正教会の指導者とも
対話の努力をし、カトリック教会全体を揺るがした性的虐待について謝罪し、
パンデミックのさなか、静まり返った世界では、ひとりで祈りを捧げる……。
心が洗われるとともに、深く考えさせられる作品でした。
フランシスコ教皇について知りたいと思う方だけでなく、混迷の社会に絶望している人、
光を見出したいすべての人にみてほしいと思う映画です。
教皇は、お医者様に止められても、公務を果たそうとしたと伝えられています。
亡くなる前日も、キリストの復活祭で、バチカンのバルコニーに姿を見せていました。
最後の最後まで、世界をよりよい場所にしようと願っていたことが伝わってきます。
その志は、あとに残るわたしたちへの贈り物だと思います。
親愛なるパパ様、貴方の魂が安らかでありますように。
これからは、空から地上を見守っていてくださいね。
群馬の林檎便り〜可愛い花が咲きました ― 2025年04月27日 10:17
©️T.S.
今年も群馬の従兄から、林檎の花の便りが届きました。
愛らしく清らかな蕾と花に、いつも心がなごみます。
大好きな言葉が浮かんできます。
「天にありては星、地にありては花、人にありては愛。これ世に美しきものの最たらずや」
明治の思想家、高山樗牛(ちょぎゅう)が残した言葉だそうです。
31歳で早逝したといいますが、本当に大切なことを知っていた人だと思います。
我が家では、昨日、手すりの工事が終わり、母が歩きやすくなりました。
母の部屋とわたしの部屋の交換も、ほぼ中身が入れ替わり、生活しやすくなってきました。
訪問リハビリも(まだ回ですが)順調に進んでいます。
なにごとも一歩ずつ、ですね。
ロシアのウクライナ侵攻が、転換点を迎えようとしています。
「人にありては愛」
見せかけではなく、フランシスコ教皇が最後に望んだように、真の平和が訪れますように。
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