広島から希望の光を ― 2025年08月06日 21:39
子どものころ、学校で、喧嘩はいけないと教わりました。
暴力はいけない。問題があれば話し合いで解決するべきだと。
それなのに、世界では戦争があり、暴力が溢れている。
わけがわかりませんでした。大人という存在が不思議でした。
広島に原爆が投下され、今日で80年。
日本被団協がノーベル平和賞を受賞してから、初めての原爆の日です。
それなのに、世界の動きは核軍縮から逆行し、終末時計をひたすら進めているーー
唯一の被爆国である日本ですら、核兵器を肯定する言論が飛び交っています。
今朝は、出かける前に、平和記念公園での平和記念式典を見ました。
テレビ画面には、こう刻まれた原爆死没者慰霊碑が何度も映しだされました。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」
今の世界を見たら、安らかに眠れないに違いないです。私たちの平和は、
原爆で亡くなった方の上に(原爆だけでなく、戦争で亡くなった方、あるいは
生き延びてもそれでつらい思いをされた方、今なおされている方々の上に)
成り立っているというのに。
それは、忘れてはならないことです。
奇遇ですが、式典が終わったあと出かけたのは、広島在住の幼なじみに会うためでした。
夏休みで実家に帰っている彼女が、宝塚に住むもうひとりの幼なじみとともに、
名古屋に来てくれたのです(心優しい二人は、去年がんに罹患した私のことを心配して、
私が会える状態まで戻るのを待って、会いに来てくれたのです)。
地下鉄に乗りながら、その広島の幼なじみを訪ねて、広島に行ったときのことを
思い出していました。
原爆記念館や平和公園を訪れたあと、当時、静岡から広島に越した彼女は
二人のお子さんの子育て真っ只中だったのですが、こんな話をしてくれたのです。
静岡では大きな地震に備えて、防災教育が当たり前だったけれど、
広島では平和教育が当たり前で、小学校からとても熱心に教わるのだと。
記念式典で、毎夏、子どもたちが平和への誓いを読みますが、いつもとてもしっかり
しているのは、その教育のたまものでしょうか。
もちろん、家族や親族に、被爆した方や、二世の方がいる子どもたちも多いでしょうから
それもあるかもしれません。
ただ、現在では、戦後80年を経て、被爆者の数が減ってきています。
母の友人にも、広島出身で被爆者の方がいましたが、数年前に亡くなりました。
いずれは、ひとりもいなくなってしまう時代が来るということです……。
先月来日した、ノーベル委員会のフリードネス委員長の言葉が胸に響きます。
「われわれは現在、不安定な核の時代に突入する瀬戸際にある。そのような状況だからこそ
核兵器の実態を記憶するために被爆者が行ってきた活動は、世界にとって重要であり、
世界が必要としている光だ」
ノーベル委員会が受賞者の国を訪れるのは、今回が初めてだそうです。
それだけ特別のこと、それだけ、平和への思いが強い、ということ、そして、それだけ
今の世界に危機感を覚えているということだと感じます。
フリードネス委員長がいうその「光」を消さないために、私たちが、次の世代が、
被爆者に代わって、核兵器がいかに非人道的な兵器であるかを伝えていかなくてはと
強く思います。
そのときに、広島の平和教育が、とても意味を持つのではないでしょうか。
たとえば、私はこんな想像をします。
広島や長崎だけでなく、日本中で平和教育をしたらどうだろう、と。
だって、「日本って戦争してたんですか?」という大学生がいる時代なのですから
(二人の先生から直接聞いた話です!)、戦争の加害の歴史も含めて、しっかりと。
日本中の子どもたちが平和について考え、今度はそれを、世界中の学校に行って、
子どもたち自身が授業を行い、意見を交換し、交流を図る。
そして、日本の子どもたちに教わった世界の子どもたちが、同じ国の学校や、別の国の
学校に行って、授業をする。
それによって、未来を担う子どもたちが変われば、きっと世界は変わる。
戦争ばっかりする大人に代わって、子どもたちが世界平和を先導していく。
そんなふうに、広島から、日本から、希望の光を世界に発信することは、
決して夢物語ではなく、現実的にできることです。そう信じています。
アンジェラスの鐘と被爆クスノキ ― 2025年08月09日 17:37
浦上天主堂は少しピンクがかった赤レンガの美しい教会です。
昔、家族旅行で長崎を訪れたとき、原爆で破壊されたとは思えないほど、長崎の空と大地と
ひとつになってたたずむ姿に胸を打たれました。
戦前、2つの鐘楼には、アンジェラスの鐘と呼ばれるフランス製の2つの鐘があったそうです。
80年前に原爆が投下されたとき、爆心地に近かった天主堂は壊滅的な被害を受けました。
鐘のひとつは、奇跡的に、ほぼそのままので見つかりましたが、
もうひとつは修復不可能なほど破壊されていたと聞きました。
それを復元した鐘が、先月アメリカから寄贈されました。長崎を訪問し、
失われた鐘のことを知って寄付を募ったのは、ジェームズ・ノーラン・ジュニア教授。
マンハッタン計画に関わった医師の孫にあたるそうで、運命の不思議さを感じます。
教授は、アメリカ各地を回り、キリシタン弾圧の苦難の歴史を経てようやく完成した
浦上天主堂が原爆によって破壊されたこと、戦後再建されたこと、人々の鐘への思いを伝え
たところ、600人余りのカトリック信者から寄付が集まったとのこと。
復元された鐘は、分断が深まる世界で、平和と希望の象徴となるようにとの願いをこめて、
あらたに「希望の聖カテリの鐘」と命名されたそうです。
そして、今日、原爆が炸裂した11時2分。80年の時を超えて2つそろった鐘が、
平和公園の鐘とともに鳴らされました。黙祷を捧げる耳に、その響きが聞こえてきて、
胸がいっぱいになりました。2つの鐘が共鳴した響きは、美しく荘厳でした。
あとで画像を見てみましたが、雨に濡れた浦上天主堂と復元された鐘が鳴る様子も
映っていました。
式典では、福山雅治さんの「クスノキ」の合唱もありました。
爆心地に近い2つの小学校の児童による合唱で、心にしみました。
あの日まで、山王神社の境内にそびえていた2本のクスノキは、浦上天主堂と同様に、
爆心地に近かったため、幹は裂け、枝葉を飛ばされ、枯れてしまうと思われたそうです。
けれども、被爆から2か月で奇跡的に新芽を芽吹かせました(長崎市のWebsiteでは
2か月、山王神社のWebsiteでは2年となっています)。
それが、どれほど当時の長崎の人々の胸に希望の灯をともしたか、それはもう、私の
想像を遥かにこえていることでしょう。
いま、どちらの木も、互いに枝をからめながら、天に向かって堂々とたたずむ姿を
見ながら、そんなふうに思いました。
先日、クローズアップ現代で見たのですが、福山さんは被爆二世で、17歳のころ、
父親が1年間がんで闘病した後、亡くなったそうです。病気に対して何もできない無力感、
虚無感がすごくあるなか、ふらりと立ち寄った山王神社のクスノキに、助けられたと
語っていました。それから、たびたびクスノキに会いにいったそうです。
お父さんのがんは、赤ちゃんのとき被爆したことに原因があるに違いありません。
福山さんやご家族の気持ちを思うと、言葉を失います。
そんな被爆者の方々が本当にたくさんいるわけですが、それぞれに大切な方がいて、
皆さんどんな気持ちだろうと思うと、胸がつまります。
本当に、長崎を最後の被爆地にしなければなりません。
福山さんは、自らのルーツを歌にしたいとずっと思っていたそうです。そして、
被爆クスノキをモチーフにした楽曲を作りたいと思い、メロディと「わが魂は」の歌詞は
ずっと心にあったそうですが、曲が完成したのはその24年後。
絶滅にひんした生き物に出会う番組のナビゲーターを務めたとき、「地球に生かされている」
と感じ、クスノキの立場で歌にできる、と思ったそうです。そこからは早かったとか。
そこからまた歳月を経て、平和祈念式典で歌われるまでに成長したクスノキの歌。
平和への強い願いとともに、ずっと歌い継がれて行くことと思います。
浦上天主堂の2つの鐘と、2本の被爆クスノキは、私たちに、決して戦争をしてはいけない、
決して核を用いてはならないと伝えてくれます。
永遠の平和を誓い祈る日 ― 2025年08月15日 22:33
終戦から80年。
戦争を知る世代が少なくなるなか、戦争でなくなった全ての方、大切な方を失った全ての方、今なお後遺症で苦しんでいるすべての方に、心を寄せて、永遠の平和を祈ります。
310万人といわれる戦没者を慰霊する全国千戦没者追悼式で、石破首相は
「進む道を二度と間違えない。あの戦争の反省と教訓をいま改めて
深く胸に刻まなければなりません」と、「反省」という言葉を使いました。
式典での首相の式辞でこの言葉が使われたのは、2012年以来のことです。
「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」とは、ドイツのワイツゼッカー大統領が
敗戦40年目の1985年に連邦議会で行った演説の一節です。
戦争当時、今生きている人は子どもだったか、まだ生まれていなかったけれども、
先人が負の遺産を残したことは知っているべきであり、過去をしっかりと見つめた上で、
未来に進むべきだと訴えています。
戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しいといいますが、
ウクライナやガザの惨状を見ていると、本当にそうだと感じます。
内線が終わったシリアでも、難民たちが戻って無事に暮らせるようになるには
あと1年はかかるといわれているそうですし、アジアやアフリカにも各地に紛争地が
あります。
まずは戦争を始めないこと。
戦争の放棄をうたった憲法九条をしっかりと守っていかなくてはならないと痛感します。
強力に武装すれば国が守れるというのは幻想だと思います。
最初の一歩を踏み出してしまうと引き返せない。一般の市民が戦火に巻き込まれてしまいます。
今は、核という恐ろしい武器があります。一瞬で広島と長崎を破壊し、80年がたった
今でも原爆症で苦しむ人がいるという現実。現在の核兵器の力は当時の比ではありません。
一旦使われたら、どんなことになるか、想像するだけで恐ろしいです。
かつて、圧倒的な軍事力の差があったと言われる戦争に駆り出されていった若者たち。
母は9人兄弟の末っ子で、兄たちは海軍や陸軍に入隊し、姉は軍事工場に行っていました。
兄(私にとって伯父)の一人は戦死しています。面白い人だったそうで、会いたかったと
思います。
たぶん、私の世代は、直接身内から戦争の話を聞く最後の世代になるのかもしれません。
だとしたら、これから、その話を伝えていかなければならないと、戦後80年のいま、
ひしひしと感じています。
世界各地の戦争や紛争が、いっそうそういう思いに駆り立てるのだと思います。
タモリさんが、いまは戦後ではなく、新しい戦前だと言ったのはいつだったでしょうか。
その言葉に戦慄を覚えながらも、もしかしたらそうなのかも、と、ずっと感じています。
決して、そんなことになりませんようにと切に祈ります。
そして、戦争でなくなった全ての方、大切な方を失った全ての方、今なお後遺症で
苦しんでいるすべての方に、心を寄せて、永遠の平和を祈ります。
今日はまた、大好きな祖父の命日でもあり、私にとって、とても大切で忘れられない
日。お盆で帰ってきてくれていたかな。大きな愛のかたまりのような人だった祖父。
私が14歳のとき、亡くなった祖母のあとを追うように、膵臓がんであっという間に
旅立ってしまいました。
祖父にふたたび会う前に、世界の平和のために、小さなことでも、私にできることを
続けていきたいと、心に誓っています。
写真は昨日の名古屋の夕空。こんな美しい夕焼けは久しぶりで、終戦の日を前に、
とても胸にしみました。
戦火に散った球児たち〜県岐阜商と大伯父のお話 ― 2025年08月21日 14:25
猛暑の中、甲子園での熱戦が続いています。
岐阜生まれ、岐阜育ちの私にとって、県岐阜商業の活躍は嬉しいものでした。
横浜にも長く住んでいたので、準々決勝はどっちも頑張れ〜と言う気持ちもありながら、
亡き大伯父のことを思い出し、やっぱり岐阜を応援していました。
延長タイブレークの11回までもつれこむ大接戦の、ものすごい試合で、
最後に、スタンドから両校の選手たちに送られた万雷の拍手にも胸が熱くなりました。
県岐阜商が甲子園に初めて出場したのは1932年の選抜大会(当時は岐阜商業学校)。
翌年の春には初優勝、35年に二度目の全国制覇をしました。
夏の大会では、1936年の第22回大会で優勝を飾っています。
当時、野球部の応援会長だった大伯父は、浜松の中学野球のヒーロー松井栄造選手を
引き抜きました。松井選手は1935年の春から登場し、活躍しています。
素晴らしいピッチャーであり、バッターとしても一流。
大伯父の家には、松井選手のほかにも、野球部員が下宿していたので、
大勢の部員が出入りして、大伯母は彼らの母親代わりだったそうです。
今の県岐阜商と同じく、チーム力が抜群だったようです。素敵ですね。
松井栄造選手は、六大学野球ができる早稲田大学に進み、そこでもヒーローに。
けれども、1941年、太平洋戦争が始まると、野球界にも大学にも暗い影が落ちます。
やがて松井選手も出征。1943年5月、中国で戦死しました。
彼だけではなく、岐阜商が第22回大会で優勝したメンバー14人のうち、
あの戦争で5人が帰らぬ人となったそうです。
大伯父は1898年(19世紀!)生まれ。建築家で大勢の人に慕われていましたが、
子どもだった私や妹にもとても優しく、いつもおだやかで、笑顔を絶やしたことが
ありませんでした。
そんな大伯父でしたが、松井栄造さんを始め、岐阜商の球児たちの話をするときは
遠い瞳になりました。背が高い人だったし、眼鏡の奥でよく見えませんでしたが、
そのときにはいつも、うっすら涙を浮かべていた記憶があります。
あの遠い瞳は、大伯父が亡くなって何十年が過ぎた今も、忘れることができません。
県岐阜商の大躍進。終戦から80年を迎えたこの夏、大伯父も、松井選手たちも、
きっと空から見守り、エールを送っていたのではと感じています。
どの選手も素晴らしかったですが、身内に障害がある者として、やはり、
横山温大選手の活躍が、心に残りました。
生まれつき左手の指がないハンディを乗り越えて(人の何倍も努力して、様々な工夫をし
ーー右手のグラブで捕ってすぐグラブを外してボールを持ち替えて送球などーー
今の彼があるそうです)、笑顔でプレイする姿は本当に爽やかでした。
ヒットもすごいけど、準々決勝で横浜のライトへの大きなヒットを追いかけて
ジャンプして捕ったファインプレイや、今日の準決勝での犠牲フライも素晴らしかったです。
それにしても、残念なのは、今なら、大伯父の話をもっと深く聞いて、
少しは話し相手になれたかもしれないということ。
若くて考えなしだった頃の自分を、ちょっと情けなく思います。
せめて、こうして、少しずつなにか伝えられたらと思っています。
そして、第二次世界大戦で大勢の球児が戦場に行き、命を落としたことを、
しっかり覚えていようと思います。
☆ ☆ ☆
ネットで調べてみたら、早稲田大学の歴史館で、2012年の春の企画展として
「戦地に逝ったワセダのヒーロー松井栄造の24年」が催されていました。
知っていたら、行ったのですが……。24歳。本当に青春まっただなか。
遺書や銃痕の残るヘルメットも展示されていたそうです。
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