ユナからルシタナへ ルシタナからふたたびユナへ ― 2018年12月02日 12:18

かつて『ユリディケ』の構想が浮かんだとき、元気いっぱいの女の子の姿が見えました。それがタイトルロールのユリディケ(愛称ユナ)です。
ユナは、亡き両親にかわって、伯父夫婦に愛情いっぱいに育てられた、天真爛漫なお転婆娘。村一番の美人で、村の男の子たちからちやほやされ、ちょっと、いえ、ずいぶんとわがままです。
学校を卒業したあと、気ままな毎日を送っていましたが、あるとき、二千年前の伝説の娘ルシタナの生まれかわりで、失われたダイヤモンドの剣を探す運命にあると告げられたことから、不本意ながら異国へ旅立つことになります。
伝説で語られたルシタナは、人間の王子と不老の民フィーンの王女とのあいだに生まれた娘。心やさしく、勇気も人一倍。ユナとの共通点は、美しいということだけ。
ユナは、そんな〈過去の自分〉に押しつぶされそうになりながら、辛く厳しい旅を通して、ひとの心の痛みや悲しみを感じられる人間に成長していきます。
そんな変化をはっきりと描くために、ユナの設定は、敢えて気が強く、自分のことしか考えない、お世辞にも性格がいいとはいえない少女にしました。(絶対にに友だちにしたくないタイプ!)
もう少しトーンを抑えても、心の成長は充分に描けたと、今なら思います。
ただ、『ユリディケ』を書き始めたのは二十六歳のころ。若かったわたしは、そんなふうには思いませんでした。
それが、歳月が流れ、〈サラファーンの星〉四部作を執筆するうちに、ユナのキャラクターに違和感を覚えるようになってきました。
そこで、四部作を書き終えた『ユリディケ』を改稿する際には、ユナの描写に手を入れることにしました。
現在、無邪気で自由奔放なところは残して、我が儘放題の部分を少しやわらげながら、改稿を進めています。
そんな今、感謝の気持ちとともに思い出すのは、『ユリディケ』を出版したあと、そんなユナのことを好きだといって、あたたかなファンレターをくださった若い読者の方々のことです。きっと、ユナの欠点をおおらかに受け止め、彼女の成長を見守るように読んでくださったに違いありません。
完璧な人間などいませんし、もしいたら、ひどくつまらないですよね。若いのに、そうしたことを自然と感じて、欠点がいっぱいのヒロインを応援してくださったと思うと、胸がいっぱいになります。
(改訂版をどう思うかなぁ…。がっかりさせてしまったらごめんなさいm(_ _)m)
伝説では完全無比のようにいわれているルシタナにも、いくつか欠点があります。そんなルシタナのキャラクターを描くのは、〈サラファーンの星〉を書く上での楽しみのひとつでした。
脇役でも、欠点の多いキャラクターを描くのは、楽しかったです。彼ら彼女らは、ごく自然に動きまわってくれるので、大いに助けられました。
「現代」の物語から始めて、「過去」の物語に戻り、ふたたび「現代」に立ち返る。
そうして、ようやく、サラファーンの長い物語の終わりを迎えられそうな気がしています。
黒猫のアイラ〜優子さんのイラスト ― 2018年12月04日 20:49

『かぞくいろ』 〜 喪失と再生の物語 ― 2018年12月13日 13:40

突然夫を失い、彼の連れ子とふたりで残された女性が、その男の子とともに絶縁状態だった夫の父を訪ねるところから、物語は始まります。
愛する人の喪失という痛みを共有する三人は、一緒に暮らし始めますが、それは、お互いをそっと気遣う、一歩引いたやさしさの上に成り立ち、最初から、どこか危うさを秘めています。
やがて、血のつながらない家族は、ある出来事をきっかけに……。
映画は、一両だけの肥薩オレンジ鉄道が走る美しい海沿いの光景を背景に、もろかったその絆が、静かに再生へと向かう過程を丁寧に描いてゆき、彼らに幸あれと祈らずにはいられませんでした。
物語にそっとよりそう音楽も、観る者の心に染みます。
〈サラファーンの星〉にも、血のつながらない家族が登場します。
主人公のひとりハーシュは、幼いころ父を失い、母の再婚にともなって、サンザシ館にやってきた少年。新しい父ダンと、義兄のジョサとようやく打ち解けかけたころ、母が事故で亡くなり、三人の関係はぎくしゃくしてしまいます。
ダンは、血のつながりはさして重要ではなく、愛こそがすべてだとの強い信念を持っており、ハーシュと気持ちを通わせようとしますが、彼の心は星よりも遠く思われます。
一方のハーシュは、村の少年に父を侮辱されて暴力事件を起こしますが、理由をいえるはずもありません。また、ふたりのあいだに立つジョサにも、胸に秘めた思いがあり、わたしは、そんな家族の行く末を、やはり、祈るような思いで書いていました。
家族とは、家庭とは、血のつながりがあるなしにかかわらず、心がいつでも戻れるところではないでしょうか。そんなふうに感じます。
子どもだったわたしが、世界で一番好きだったのは、母方の祖母でした。無償の愛でわたしを包んでくれた祖母は、安心して羽を休めることのできる、たったひとつの心の港でした。
その祖母が、血がつながっていないと知ったのは、七歳のときです。
祖母は祖父の三番目の妻なのだと母が話してくれたのです。そして、祖父母は母の養父母で、本当は叔父夫婦にあたるのだと。
その話を聞いたときのことは、いまでもはっきりと覚えています。
小さなわたしは、こう思いました。
大好きなおばあちゃまとわたしには、血のつながりはないんだ。
普通なら、ここでショックを受けるのかもしれない。でも、全然ショックじゃないな。
血は関係ないんだ。大切なのは血のつながりではないんだ、と。
幼い子どもにとって、それは、人生で最初の悟りでした。
わたしは、大人びた子どもではありませんでした。全く逆で、なにをするのも遅く、いつまでも子どもっぽかったと思います。でも、そのときは、強烈に心を揺さぶられたのです。
二年後、祖母は亡くなり、最愛の人を失った世界は、色彩を失ったようでした。
祖父もあとを追うように亡くなりました。
けれども、祖母の連れ子である叔父は、いまも元気で、時々一緒に食事をします。大切な家族です。
祖母は百合の花が好きでした。祖父がよく大きな花束を贈り、祖母が居間に飾っていたのを思い出します。今日は祖母の命日。百合の花束を手に、墓地を訪れました。
『かぞくいろ』を一緒に観た友人は、小学生の男の子のいる男性と結婚し、その男の子を愛情たっぷりに育てました。いまや立派な青年となった彼は、映画の駿也くんのように、彼女を名前で「ゆかちゃん」と呼んでいたものです。
それもいいな、と思いました。家族の形や呼びかたにこだわることはないのですから。
子どものころの空想遊び ― 2018年12月29日 14:31
雪の朝 ― 2018年12月29日 15:11

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