41年目の結婚祝い2025年10月15日 09:24


雨上がりのオリーブ

昨日、大学のアーチェリー部の仲間から同期女子宛てにメールがありました。
ちょっと報告したいことがあるとのタイトルに、なんだろうと思って開けると、
結婚祝いに私たちが贈ったNationalのオーブンレンジが41年も稼働したとのこと。
本当にびっくりしました。

最近スタートボタンの具合が不調でとうとう引退してもらうことになり
電気店でPanasonic(はい。今のパナは昔はNationalという名だったんです)の
店員さんに話したら、腰を抜かしたそうで。当然ですよね。

41年…! そんなに長い間、愛用してもらえて、嬉しかったです。
果報者のオーブンレンジ♡
後続もパナにしたそうで、本日、結婚祝いの品とはお別れだそうです。

彼女の結婚祝いにオーブンレンジを贈ったことは忘れていましたが、
同期で初めて新婚宅へおよばれしたとき、
美味しいビーフシチューを振る舞ってもらったのは、よく覚えています。
当時の私は、ビーフシチューはお店で食べるものであって、自分で作るなんて
発想、なかったので、いっそう感激しました。
すごく美味しいとみんなでいったら、良かった〜とほっとしたようにいい、
何時間もコトコト煮込んだと打ち明けてくれたのも記憶に残っています。
そんな一生懸命作ってくれて、美味しいはずです。食事は愛情ですね。

昨日のみんなの返信でわかったのですが、オーブンレンジを贈ったことは忘れていても
やはりビーフシチューのことは覚えているという仲間もいました。
当の彼女は、ビーフシチューのことは覚えていないそうで、
覚えていたことに、ありがとうとお返事をくれました。

先月から、たぶん猛暑の疲れだと思うけれど、末梢神経障害に加えて、
消えていた副作用が復活してきて(そんなことってあるのかな)、
味覚障害ーー口の中が不味くて痛かったり水が甘かったりーーに、低血圧のふらつきも
戻ってきて、今月検査なのになんだかなぁって思っていたところ、
思いがけず、心がぽかぽかするメールに、嬉しくなりました。

写真は、散歩した際に見かけた、雨上がりのオリーブ。
雨粒が宝石のようにきらきらしていました。

追悼〜ロバート・レッドフォード2025年09月27日 16:10


車山からの天の川
                        天の川〜車山 ©️T.S.

先週、ロバート・レッドフォードが亡くなりました。
またひとり、きらめくスターが空に還って、地上が寂しくなりました。

スターというだけではおさまらない、大きな存在だったと思います。
優れた俳優であり、アカデミー賞監督であるだけではなく、ユタ州の美しい自然の中に、
サンダンスインスティチュートを設立。
ヒットが絶対条件の、大きなスタジオが牛耳るハリウッドでは取りこぼされてしまう
小さな優れた脚本や、独立系の映画人、若者たちをのびのび育てるラボです。
そして、そこで生まれた作品を発信するため、サンダンス映画祭を主催しました。
いまではすっかりメジャーな映画祭になりましたね。
環境活動家でもあり、社会的弱者の擁護者でもあり、まさにアメリカの良心。
今の世の中に本当に必要な人だったと痛感します。

俳優としてのキャリアも本当に華やかですが、初めて観たのは『明日に向かって撃て!』。
公開当時は子どもだったので、テレビ放送でのことです。
主題歌の「雨にぬれても」と、共演のポール・ニューマン、
そして、キャサリン・ロス演じるヒロインが印象的でした。キュートな目元が私の友だちに
そっくりで驚いたし(彼女いまでも似ています)、それゆえ、親しみも感じました。
ラストシーンのストップモーションも印象に残っています。
レッドフォードを偲んで観てみようと思う人がいるといけないので、ネタバレしませんが
名シーンだと思います!

私の通った岐阜の小中学校は、保護者同伴でないと映画館は出入り禁止でしたので、
やはりのちにテレビで観た作品ですが、『華麗なるギャツビー』は、美しく悲しい物語で
心に残っています。真っ白なスーツが決まっていて、当時話題になりました。
(父と叔父が真似して白いスーツを着て喜んでました。娘としては恥ずかしかったです。)
ディカプリオのギャツビーも観ましたが、趣が異なって、どちらもそれぞれ良いです。

そして、初めて映画館で観たレッドフォードの映画は、『スティング』でした。
東京に引っ越した高校一年のとき、ロードショーから渋谷の名画座にまわってきた際、
友だちと観に行きました。
昔はロードショー落ちの作品が、二本立て三本立てで、公開から随分遅れてですが
名画座で上映されていたのです。一本の料金で2本か3本観られるので学生の強〜い味方。『スティング』は『ペーパームーン』との組み合わせだったかな(この記憶大いに怪しい)。
田舎娘には、友だちと二人で映画を見に行くというだけで大冒険で、
それもあってか、『スティング』も強烈なインパクトがありました。

作品賞を含め、音楽賞などアカデミー賞7部門に輝きましたが、その音楽の軽やかで
楽しいこと。また、何章かで構成されていて、そのタイトルもいちいちおしゃれ。
仇討ちの相手を大仕掛のトリックで騙すという物語も、ドキドキワクワク面白く、
忘れられない作品です。
これも、ポール・ニューマンとの共演で、この二人のケミストリーはほんと抜群!
(生涯の友人だったそうです。お互いにとってなんて幸せなことでしょう。)

レッドフォードが監督をすると聞いたときには本当にびっくりしたものです。
(そして、その初めての作品『普通の人々』で、アカデミー監督賞をとったのですから、
さらにびっくり! 作品賞、助演男優賞、脚色賞も受賞しています。)
一見普通に見えるアメリカの家庭を描いた作品ですが、衝撃的な映画でした。
でも、とても心に染みて、切ないけれど、何度も観たいと思わせる秀作です。
(ただし、元気なときに観たほうがよい映画ですね。重い作品でもあるので。)
これを最初の監督作に選んだレッドフォードは、繊細で、誠実で、本当に素敵な人だと
感じ入りました。
冒頭の朝食のシーンが、まず、ガツンときます。
母親が、次男のためにフレンチトーストを焼くのですが、彼が食欲がなくていらないと
いったとたん、表情ひとつ変えずに、流しのディスポーザーに落として、ガーって
砕いてしまう。それだけで、母と息子の間の緊張感、家庭の不穏な空気が伝わってきます。
次男のティモシー・ハットン(若くしてアカデミー助演男優賞受賞)がとてもよいのですが、
監督として彼をキャストした選択眼も素晴らしいです。
父親はドナルド・サザーランド。(『24』のキーファーのお父さんです。)
家族の崩壊。そして、ラストのささやかな希望。
静かに流れるパッヘルベルのカノンも、胸に染みます。

『ナチュラル』『大統領の陰謀』『愛と哀しみの果て』など、名作が多くて
書くのに迷いますが、『リバー・ランズ・スルー・イット』は外せないでしょう。
こちらも監督作で、ある家族の哀切な物語。
モンタナの大自然のなか、厳格な父親と、性格の違う兄弟の確執と絆が描かれます。
のどかなフライフィッシングのシーンが夢のように美しく、脳裏に焼き付いています。
人は人を(家族を、だったかな…)理解できないかもしれないが、愛することはできる。
そんな言葉に、その通りだな、としみじみと思いました。
自由奔放な次男を若きブラッド・ピットが演じていますが、レッドフォードに
そっくりだと、当時話題になったものです。

のちに、『スパイゲーム』で、スパイの師匠(レッドフォード)と新人(ピット)の
役柄で共演しますが、この作品も好きでした。
ラスト、緑のポルシェに乗って颯爽と駆けてゆくレッドフォードのかっこいいこと!

最後に、メジャーではないけれど、個人的に好きな作品を2つ。
『ホットロック』と『スニーカーズ』。

『ホットロック』は犯罪コメディ映画というところでしょうか。古い作品で、
子どものころテレビで観ただけなので、内容はほとんど覚えていません。が、
やはりラストの(こちらは歩いて去ってゆく)レッドフォードがなんとも楽しげで、
妙に心に残っています。彼、泥棒なんですけどね。
(良い子の皆さん、真似しないでね。)

そして『スニーカーズ』。
もとハッカー(レッドフォード)が率いるのは、企業のセキュリティの弱点を見出すべく、
実際にハッキングして指摘し、報酬を得ている合法的なハイテク集団。
彼らと、世界を揺るがす究極の暗号解読機をめぐる、ドキドキハラハラの物語。
1992年の作品で、当時はハッカーを描くこと自体、あまりなかったと思います。
それゆえ、とても新鮮で面白かったし、今は亡きリヴァー・フェニックスが
コンピューターオタクを演じたのも、すごく楽しかったです。

冒頭の天の川の写真は、従兄がこの夏、送ってくれたものです。
霧ヶ峰の車山で撮影したそうです。無数の星のきらめきが、大スターを偲ぶのに
ふさわしいと思えて、アップしてみました。
いまごろ、ポール・ニューマンやリヴァーくんとおしゃべりしているのかな。
亡くなったお子さんたちにも会えていますね。

向こうの世界でゆっくりしてくださいという気持ちと同時に、地球や社会のことを案じて
活動していた彼に、時にはこの下界を見守ってほしいと思ってしまいます。

最後に、サンダンス・インスティテュートで彼の追悼を特集しているので、
そちらを載せておきますね。
↓↓

戦火に散った球児たち〜県岐阜商と大伯父のお話2025年08月21日 14:25

猛暑の中、甲子園での熱戦が続いています。
岐阜生まれ、岐阜育ちの私にとって、県岐阜商業の活躍は嬉しいものでした。
横浜にも長く住んでいたので、準々決勝はどっちも頑張れ〜と言う気持ちもありながら、
亡き大伯父のことを思い出し、やっぱり岐阜を応援していました。
延長タイブレークの11回までもつれこむ大接戦の、ものすごい試合で、
最後に、スタンドから両校の選手たちに送られた万雷の拍手にも胸が熱くなりました。

県岐阜商が甲子園に初めて出場したのは1932年の選抜大会(当時は岐阜商業学校)。
翌年の春には初優勝、35年に二度目の全国制覇をしました。
夏の大会では、1936年の第22回大会で優勝を飾っています。

当時、野球部の応援会長だった大伯父は、浜松の中学野球のヒーロー松井栄造選手を
引き抜きました。松井選手は1935年の春から登場し、活躍しています。
素晴らしいピッチャーであり、バッターとしても一流。
大伯父の家には、松井選手のほかにも、野球部員が下宿していたので、
大勢の部員が出入りして、大伯母は彼らの母親代わりだったそうです。
今の県岐阜商と同じく、チーム力が抜群だったようです。素敵ですね。

松井栄造選手は、六大学野球ができる早稲田大学に進み、そこでもヒーローに。
けれども、1941年、太平洋戦争が始まると、野球界にも大学にも暗い影が落ちます。
やがて松井選手も出征。1943年5月、中国で戦死しました。
彼だけではなく、岐阜商が第22回大会で優勝したメンバー14人のうち、
あの戦争で5人が帰らぬ人となったそうです。

大伯父は1898年(19世紀!)生まれ。建築家で大勢の人に慕われていましたが、
子どもだった私や妹にもとても優しく、いつもおだやかで、笑顔を絶やしたことが
ありませんでした。
そんな大伯父でしたが、松井栄造さんを始め、岐阜商の球児たちの話をするときは
遠い瞳になりました。背が高い人だったし、眼鏡の奥でよく見えませんでしたが、
そのときにはいつも、うっすら涙を浮かべていた記憶があります。
あの遠い瞳は、大伯父が亡くなって何十年が過ぎた今も、忘れることができません。

県岐阜商の大躍進。終戦から80年を迎えたこの夏、大伯父も、松井選手たちも、
きっと空から見守り、エールを送っていたのではと感じています。

どの選手も素晴らしかったですが、身内に障害がある者として、やはり、
横山温大選手の活躍が、心に残りました。
生まれつき左手の指がないハンディを乗り越えて(人の何倍も努力して、様々な工夫をし
ーー右手のグラブで捕ってすぐグラブを外してボールを持ち替えて送球などーー
今の彼があるそうです)、笑顔でプレイする姿は本当に爽やかでした。
ヒットもすごいけど、準々決勝で横浜のライトへの大きなヒットを追いかけて
ジャンプして捕ったファインプレイや、今日の準決勝での犠牲フライも素晴らしかったです。

それにしても、残念なのは、今なら、大伯父の話をもっと深く聞いて、
少しは話し相手になれたかもしれないということ。
若くて考えなしだった頃の自分を、ちょっと情けなく思います。
せめて、こうして、少しずつなにか伝えられたらと思っています。
そして、第二次世界大戦で大勢の球児が戦場に行き、命を落としたことを、
しっかり覚えていようと思います。

☆  ☆  ☆

ネットで調べてみたら、早稲田大学の歴史館で、2012年の春の企画展として
「戦地に逝ったワセダのヒーロー松井栄造の24年」が催されていました。
知っていたら、行ったのですが……。24歳。本当に青春まっただなか。
遺書や銃痕の残るヘルメットも展示されていたそうです。

永遠の平和を誓い祈る日2025年08月15日 22:33



終戦から80年。
戦争を知る世代が少なくなるなか、戦争でなくなった全ての方、大切な方を失った全ての方、今なお後遺症で苦しんでいるすべての方に、心を寄せて、永遠の平和を祈ります。
310万人といわれる戦没者を慰霊する全国千戦没者追悼式で、石破首相は
「進む道を二度と間違えない。あの戦争の反省と教訓をいま改めて
深く胸に刻まなければなりません」と、「反省」という言葉を使いました。
式典での首相の式辞でこの言葉が使われたのは、2012年以来のことです。

「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」とは、ドイツのワイツゼッカー大統領が
敗戦40年目の1985年に連邦議会で行った演説の一節です。
戦争当時、今生きている人は子どもだったか、まだ生まれていなかったけれども、
先人が負の遺産を残したことは知っているべきであり、過去をしっかりと見つめた上で、
未来に進むべきだと訴えています。

戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しいといいますが、
ウクライナやガザの惨状を見ていると、本当にそうだと感じます。
内線が終わったシリアでも、難民たちが戻って無事に暮らせるようになるには
あと1年はかかるといわれているそうですし、アジアやアフリカにも各地に紛争地が
あります。
まずは戦争を始めないこと。
戦争の放棄をうたった憲法九条をしっかりと守っていかなくてはならないと痛感します。

強力に武装すれば国が守れるというのは幻想だと思います。
最初の一歩を踏み出してしまうと引き返せない。一般の市民が戦火に巻き込まれてしまいます。
今は、核という恐ろしい武器があります。一瞬で広島と長崎を破壊し、80年がたった
今でも原爆症で苦しむ人がいるという現実。現在の核兵器の力は当時の比ではありません。
一旦使われたら、どんなことになるか、想像するだけで恐ろしいです。

かつて、圧倒的な軍事力の差があったと言われる戦争に駆り出されていった若者たち。
母は9人兄弟の末っ子で、兄たちは海軍や陸軍に入隊し、姉は軍事工場に行っていました。
兄(私にとって伯父)の一人は戦死しています。面白い人だったそうで、会いたかったと
思います。
たぶん、私の世代は、直接身内から戦争の話を聞く最後の世代になるのかもしれません。
だとしたら、これから、その話を伝えていかなければならないと、戦後80年のいま、
ひしひしと感じています。
世界各地の戦争や紛争が、いっそうそういう思いに駆り立てるのだと思います。

タモリさんが、いまは戦後ではなく、新しい戦前だと言ったのはいつだったでしょうか。
その言葉に戦慄を覚えながらも、もしかしたらそうなのかも、と、ずっと感じています。
決して、そんなことになりませんようにと切に祈ります。
そして、戦争でなくなった全ての方、大切な方を失った全ての方、今なお後遺症で
苦しんでいるすべての方に、心を寄せて、永遠の平和を祈ります。

今日はまた、大好きな祖父の命日でもあり、私にとって、とても大切で忘れられない
日。お盆で帰ってきてくれていたかな。大きな愛のかたまりのような人だった祖父。
私が14歳のとき、亡くなった祖母のあとを追うように、膵臓がんであっという間に
旅立ってしまいました。
祖父にふたたび会う前に、世界の平和のために、小さなことでも、私にできることを
続けていきたいと、心に誓っています。

写真は昨日の名古屋の夕空。こんな美しい夕焼けは久しぶりで、終戦の日を前に、
とても胸にしみました。

イギリスのお母さん〜Good night, my sweet English mother2024年12月06日 19:58

月曜日、大切な友だちが旅立ちました。
27年前の夏、サリー州のお家に11日間も滞在させてもらい、
My English mother と呼んで慕っていた女性です。

以前、つくばに住んでいた友人夫婦から、イギリス人の友だちが来るから
京都を一緒に案内してほしいと言われ、春に旅をしたのがお付き合いの始まりで
その後、わたしが渡英。
11日間もお世話になり、イギリスのお母さんと慕っていた女性です。

娘さんのペニーがわたしと同世代で、ウェールズからロンドン郊外のお家に
車で駆けつけ、3人でオックスフォードとシェイクスピアの街を旅したのも
大切な思い出です。
毎夏、お誕生日カードを送っていたのですが、今年は入院騒動で送れず、
お祝いメールを送りました。わたしの病気が治るようにと祈ってくれていたのに、
秋にペニーから連絡があり、転んで肋骨を折って入院したら、院内感染で
ひどい感染症にかかって、家で療養しているとのことでした。
食事がとれないので、水分だけでもとるようにどうにか工夫していると聞いて、
どうか快復しますようにと祈っていたのですが……。

まだ信じることができないでいます。
元気だったら告別式に飛んでいきたい思いです。。。
2018年の秋。ちょうどこのブログを始めたときに、イギリスを再訪し、
彼女とペニーにも再会しました。それが最後になりました。
家族のことが気になって、迷った末に、思い切って行った旅でしたが、
本当にあのとき会っておいてよかった。でも、せめてもう一度
会いたかったです。

去年の同じ時期にも、大切な友人が旅立ちました。もうすぐ一周忌。
寂しい季節となりました。

マーガレット。大切なイギリスのお母さん。
いつか、また会えますね。
暗いニュースが多いこのごろで、世界がどうなっていくのか心配ですが、
今度会ったときに恥ずかしくないように、きちんとまっすぐ生きていきたいです。

アラン・ドロンとサラファーンの星2024年08月19日 20:40

アラン・ドロンが亡くなりました。
数年前に脳卒中で倒れて以来、体調を崩していると聞いていて、いつかはこの日が来ると
覚悟はしていましたが、やっぱり寂しいです。
中学生の時、人生で初めて、ファンになった「スター」だったから。

当時のアラン・ドロンの人気ときたら、本当にすごくて、映画雑誌の表紙を何度も飾り、
映画もたくさん公開されたり、テレビでオンエアされたりしていました。
日本のCMにも出ていました。レナウンのダーバン! 愛馬と一緒のが特に好きでした。

こんな美しい人がこの世にいるだろうかと信じられない思いでしたが、
美しさよりも、彼の翳りに惹かれました。
4歳のとき両親が離婚。母親に引き取られるも、母の再婚で里子に出され、
いくつもの学校を(問題児だったため)放校になり、
17歳で軍隊を志願、インドシナ戦争に従軍し、軍でも問題を起こしたそうです。
たぶんずっと、愛情を求めていたのだと思います。

恋多き人でしたが、5年に渡る婚約が破綻して、長すぎた春と言われた
ロミー・シュナイダーとのその後の逸話は、とても胸を打たれます。
別れたあともずっと気にかけ、ロミーの一人息子が悲劇的な事故で亡くなったときには
半狂乱のロミーに代わって、葬儀をすべて準備したり、その後ロミーが亡くなった際には
3日間棺に付き添ったと言われています。そして、葬儀は静かなものにしたいと
(メディアが騒がないように)自身は出席しませんでした。
ボディガードが他殺体で見つかったときには、殺人容疑がかかりました。
この事件は未解決のままです。
真実はわかりませんが、この事件が彼の人生に大きな影を落としたのは
間違いありません。
そんなところも含めて、謎多き人ですが、犬と馬が大好きなことでも知られています。
孤独な分、動物と心を通わせることができるんだなと感じます。

青春の1ページのアラン・ドロン。
高校生の時に書いた短編の一つは、彼をモデルにしています。
また、ずっと前、このブログに書いたように、サラファーンの星のダイロスのイラストを
描くときには、彼の写真をたくさん参考にしました。
ダイロスは金髪ですので、髪の色は違いますが、アラン・ドロンの翳りと冷たい美しさを
投影したイメージです。こちらが、モノクロのスケッチ。(本物の美貌には届かないけれど
精一杯描きました。)

ダイロス・スケッチ(部分)by fumiko

そしてもう一人。まだ記事にはしていませんが、いつか書こうと思っているキャラが
ロンドロンド。
アラン・ドロンの明るく純粋で繊細な一面を投影したキャラクターです。
俳優として、ルネ・クレマンやヴィスコンティなど、超一流の監督と仕事をした人ですが、
ヴィスコンティの『若者のすべて』は、本当にピュアで心やさしい若者を描いて秀逸です。
ロンドロンドのイラストを描くときも、無論アラン・ドロンの写真を参考にしました(が、
全然似ていなーい! とても難しかったです)。

特に好きな映画は『冒険者たち』。これも前にブログで書きましたが、ヒロインの
レティシアがとっても素敵で、ジョサの母親の名前をレティにしました。
日本版とアメリカ版は、エンディングでアラン・ドロンが歌う『愛しのレティシア』が
流れます。テノールの素敵な歌声です。(ロンドロンドは歌が上手で素晴らしいテノール)
フランソワ・ド・ルーベ作曲で、主題曲ともども、口笛が印象的な、一度聞いたら
忘れられない曲です。かつてはレコードを買いましたが、今はCDを持っています。

抗がん剤の副作用の痛みで眠れないとき、何度も聴いていました。
不思議と気持ちが落ち着くんです。
それで、彼はどうしているかなと思っていたのですが。
亡くなった直接の原因は公表されていませんが、悪性リンパ腫を患っていたそうです。
B細胞型。私が罹患しているガンと同じタイプのリンパ腫です。
彼は逝ってしまったけれど、私は頑張って治さなくちゃね!

今週、4回目の抗がん剤の投与を受けます。
その直前、訃報を受け、思わずこの記事を書かずにはいられませんでした。

たくさんのインスピレーションを与えてくれたアラン。ありがとう。
いまごろ、先に旅立った愛する人たちと再会して、喜びに包まれていますように。

GODZILLA〜ゴジラのチョコレートケーキ2024年05月25日 06:30


ゴジラのケーキ

昨日、妹とふたりで家族の用事で金山に出かけました。
ちょっと疲れたし、たまにはホテルのロビーで優雅にお茶して帰ろうと、
ANAホテルに寄りました。
観光客で混んでいて驚きましたが、ロビーラウンジのショーケースにゴジラ発見。
上の階の美術館で「庵野秀明展」をやっているとのことで、タイアップ企画でした。
ケーキのタイトルは、そのものずばり〈GODZILLA〉。

妹は普段ならわたしが選ぶであろうイチゴのタルトとレモンティーを、わたしは
せっかくなのでゴジラのチョコレートケーキとミルクティーを頼みました。

白に金の枠の入ったシンプルなお皿に載ってきたのが、こちらのGODZILLA。
説明によると「ミルクチョコレートの中に、生キャラメルとキャラメルクリームを閉じ込め
ゴジラのチョコレートをのせました。一点一点手作りのゴジラチョコレートは、顔の違いを
お楽しみください」私のゴジラちゃんは、ちょっとユーモラスな雰囲気。
(クリック拡大で見えるかな?)
ちょっと甘そうで、実はあまり甘いケーキは得意ではないけれど、
友だちが『ゴジラ−1.0』に携わっていたので、(庵野さんの『シン・ゴジラ』ではないですが)なんだか嬉しくなって、迷わず選びました。
さっそくゴジラのチョコをがぶり。ラズベリージャムが散りばめてあり美味しかったです。
下の丸いところはほぼムースで甘かったけど、周りはちょっとビターだし
ラズベリーがひとつアクセントに載っているし、ゴジラの台はしっかり硬いビターチョコで
美味しかったです。

広告会社に勤めているころ、庵野さんが携わった『オネアミスの翼』をその友だちと見に行ったことがあります。展覧会では『オネアミス』関連も出展されていたようでした。
膀胱炎が治りたての妹。私も家族や自分の病院の梯子が続いていたあとで、展覧会には
寄らずにそれぞれ帰宅しましたが、やっていることを知っていたら、『オネアミス』の
絵コンテなど拝見したかったな。
展覧会は6月23日まで開催しています。ファンの方はぜひどうぞ。チケット提示で
ゴジラチョコは10%Offだそうです。

この悲しみもいつか幸せな思い出に2023年12月29日 14:06

友だちが逝ってしまいました。
(会社の先輩だったから、友だちと呼ぶのは失礼かもしれないけれど、会社員時代、
よく一緒に遊び、ともに夢を語り合った人なので…。)
共通の友人から訃報が届いた日は、なかなか眠れず、浅い眠りに落ちたと思ったら、
また目が覚めてしまって、そして、ふたご座流星群の時期だったと思い出しました。
バルコニーに出たら、大きな流れ星が夜明け前の空に向かってまっすぐきれいに流れました。
その流星の話は、この前に記事に書きましたが、友だちのことは書けませんでした。

病気だと打ち明けられたのは一年半前。私も障害のある甥の施設探しに奔走したり、
うつ病を発症したりで、なかなか連絡ができなかった時期で、
自分のほうが大変なのに、私のことを心配してくれるやさしい人でした。

亡くなった人は、姿が見えなくなっただけで、魂は決して滅びないとわかってはいても、
思い出が多すぎて、声を聞いたり、一緒に食事をしたりできないのが寂しくてなりません。
メールを読み返すこともできずにいます。今は悲しみが深くなるだけだから。
いつかそうしたすべての記憶が、幸せな思い出へと変わってゆくのかな…。

当たり前のことって、なにひとつない。家族も親戚も友人たちも、みんなそうですね。
どの人も、どの人との出会いも、かけがえのないもの。改めてそう感じています。

もうすぐ2023年が終わりますね。
ウクライナの戦争が長引くうちに、イスラエルとハマスの戦争が始まって、
この21世紀に信じられないような悲惨な状況になっています。
特に犠牲になっているのは子どもたち。本当に辛いです。
私たちは戦争をしている余裕はなく、協力して気候危機を解決しなければならないのに。
亡くなった友だちは、気候危機の問題を真剣に考えていました。
なにごとも、嘆くだけではなく、一歩踏み出すこと。私も、早く心身の元気を取り戻し、
もっと動いていきたいと思っています。
希望は、人の心とともにあります。

今年も、読んでくださってありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください。