夜明け前の月2026年01月15日 19:27


夜明け前の月

今朝は市の健康診断のため、夜明け前に起きました。
東の地平線がピンクとオレンジに染まった上には、まだ細い月が輝いています。
夜明け前の静かなひととき。心も静かになる、とても好きなひとときです。
時刻は6時20分過ぎ。ぽつぽつと明かりのついた家もありますが、
まだ街灯が灯っています。薄い青の空はどこまでも澄んだ色でした。

それから1時間弱。出かける準備をしているうちに、月は消え、地平線近くには
オレンジ色の朝日が見えました。

月を追いかける太陽

薄い雲がかかっているので、やわらかな光で、こちらも本当にきれいでした。

そんな美しい朝ですが、軽井沢の碓氷バイパスでバス事故があったのは、
ちょうど10年前のことです。
スキーツアーのバスが、碓氷バイパスのカーブを曲がりきれず、ガードレールを
突き破って崖から転落したのですが、乗客が若く、ほとんどが大学生だったことが、
いっそう衝撃的でした。
法政大学の尾木ママのゼミの学生も10人乗っていて、4人が亡くなったことも
思い出します。先生としてそんな悲しいことがあるでしょうか。

バスは、制限速度50キロの道を100キロ前後で走っていたといいます。
運転手の経験不足も指摘され、運行会社の社長と当時の運行管理者が
業務上過失致死傷罪に問われて、長野地裁で有罪となりましたが、無罪を訴えて
告訴したため、裁判は今も続いています。

遺族会や尾木ママは、政府に対する安全対策の要望や、命の大切さなどを訴え
様々な運動をしています。
そうした努力で、バスの運行の規制は強化されましたが、バス業界に限らず
安全意識の薄さから起こる事故があとを絶ちません。
亡くなった人たちの命を無駄にしないよう、より安全な社会になるよう、
公共交通機関だけでなく、誰しもが安全に対する意識を高めていきたいーー
そんなことを思った夜明けでもありました。

母のふるさと鳥取の地震2026年01月13日 21:50

島根と鳥取での震度5強の地震から一週間になります。
鳥取は母の故郷で親戚もいます。連絡したところ、無事だとのことでほっとしましたが、
怪我をした人や家屋の被害も出ていて、その上、大雪も重なってしまいました。
山梨では山火事が6日目となった今日も、鎮火の目処がたっていません。
太平洋側ではほかにも火災が多発していて、群馬の山林火災はおさまったものの、
神奈川の山火事はまだおさまっていないそうです。
日本海側の雪が、そちらに降ってくれたらいいのにと思ってしまいます。

寒い中、避難している方々、被災された方々はどんなに大変でしょう。
心からお見舞い申し上げます。一日も早く日常が戻りますように。

母からたびたび聞かされた話ですが、
戦争のさなか、1943年の9月、鳥取で大地震があったそうです。

ものすごく揺れて、祖母は、当時7歳だった母を抱えて、かばうようにして、
柱につかまって立って、揺れに耐えていたそうです。
幼い娘を守ろうと必死だったのだと思います。

母は9人兄妹の末っ子。一番上の姉とは20歳離れています。二番目の姉とは10歳。
その姉は、地震で外に飛び出して、落ちてきた瓦で怪我をしました。幸い軽症でした。
母の家は、母が生まれた年に建てたので、とても頑丈だったそうで、
隣の家が倒れてきましたが、母の家に支えられ、倒壊を免れたと聞いています。
近所20軒くらいのうち、残ったのは5軒ほどだったとか。
50メートルほど離れたところには、曽祖父の家がありましたが、倒壊し、
曽祖父は大怪我をして、親戚の医者の家で三か月ほど療養しました。
母のクラスメイトは、街の真ん中に住んでいて、亡くなったそうです。

地震の発生したのはちょうど夕食時で、大火も起こり、大変な被害だったそうですが、
母の家は、夕食が早かったので助かりました。というのは、
海軍にいる兄が帰ってきており、そのために、当時のご馳走であるおはぎが夕食だった
からで、火はもう使い終わっていたとのこと。
その兄は、翌日、呉に戻るはずでしたが、地震の被害で
列車はすべて止まっています。兄は鳥取から徒歩で岡山まで行き、そこから列車に
乗ったそうです。その兄は翌年、戦死しました。(私の会うことのなかった伯父です。
会ってみたかったな、と思います。)

母の家は、風呂場が壊れ(昔のお風呂は薪で炊くお風呂で、母屋から廊下伝いに
ありいました)、隣家が倒れかかったところも修理が必要でしたので、
二か月間、庭でテント暮らしをしたと話していました。
この地震で全壊した家屋は7485棟、半壊は6158、全焼251、半焼16。
修理の順番が回ってくるもを待つことになりました。

今の時代も、避難の苦労は同じですね……。
もうすぐ、阪神・淡路大震災から31年。
戦争もそうですが、記憶を風化させないことは、とても大切に思えます。
地球全体で見ても、歴史から学ばない国家元首が多い現代では、いっそうそう感じます。

名古屋の初日の出〜20262026年01月01日 20:07

新しい年が始まりました。
能登の震災から2年。今日は追悼の日でもあります。
元旦がそんな悲しい日になるなんて、あの前日まで、想像もしていませんでした。
能登の一日も早い復興を願うとともに、
犠牲になった方々の魂がどうか安らかでありますようにと心から祈っています。

ここ名古屋は、夜明け前、東の空に大きな暗い雲がかかっていましたが、
日の出を迎える少し前から、こんなふうに徐々に晴れてきました。

初日の出2026〜2

そして、とても寒い中、遠くの山の上にたなびく雲の上から、太陽が顔を出し、

初日の出2026〜3

オレンジがかった金色の温かな光を投げかけてくれました。

2026年が、こんなふうに、暗雲がゆっくりと晴れてゆく年になりますように。

Happy Christmas🎄2025年12月24日 10:32


クリスマス

クリスマスイブの今日、名古屋は雨模様。
長引いていた風邪が、やっと治り、ほっとしたところです。

写真は友だちからのクリスマスカードで、赤と茶色を基調にしたものを並べてみました。
左のカードはスコットランドの御夫婦から。毎年、お家の中や広い敷地で撮った写真を
手作りのカードにして贈ってくれます。
今回は、娘さんや息子さんたち四家族が揃って、雪の前庭にファミリードッグ四頭が
勢揃いのチャーミングな一枚。
長くこのブログを読んでくださっている方はわかるかも? サンザシ館のモデルに
させていただいたお家です。泊めていただいた時には、チェスターという
ゴールデンレトリバーとなにかのミックスした保護犬がいました。
『星の羅針盤』の冒頭から登場するヒロインの愛犬のイメージにあまりにぴったりで、
名前をチェスターに変えたくらいです。
チェスターはもう天国に旅立ちましたが、お二人はそのあとも同じ感じのわんちゃんを
迎えています。きっとその子も保護犬なんだろうなと思います。

このほか、白樺の雪の森にツリーがたたずむ素敵な青を基調にした3Dのカードや、
こするとチョコの香りがするマブカップ形の可愛いカードもいただいて、
やはりクリスマスの季節は心がほっこりします。

ただ、台湾の友だちは以前行方がわからず、やはり今年もクリスマスカードは
届きませんでした。先日の悲惨な事件のときも、また、中国との緊張関係を思っても、
とても心配で、毎日、彼の無事を祈っています。

そして、今、世界に、戦地や紛争地、被災地が、いつになくたくさんあることに
胸が痛みます。本当に世界中に平和で幸せなクリスマスが訪れますようにと祈らずには
いられません。現地に飛んでいって活動をする体力、気力がないのが情けないのですが、
昨日、精神科の診察に出かけた折り、郵便局に立ち寄って、いつも応援している、
世界の子どもたちのために活動をしている団体に、ささやかな想いを贈りました。
ひとりの力は小さいけれど、大勢の力が集まれば、きっと世界は変わってゆくはず。
少しでも地上が明るくなりますようにと願っています。

皆さま、どうぞ風邪を引かないよう気をつけて、素敵なクリスマスをお迎えください✨🎄

安青錦に、ウクライナに幸あれ2025年11月24日 19:05

ウクライナで幼少期から相撲を始めた少年が、戦禍を逃れて来日して3年半。
九州場所で初優勝を果たしました。(大の里の休場で不戦勝で待っていた)
横綱豊昇龍との優勝決定戦を制しての、素晴らしい優勝でした。

今朝の中日新聞の記事によると、幼い頃から相撲好きで、2019年、
堺市での世界ジュニア相撲選手権で三位。
そのときに知り合った関西大学相撲部主将(現コーチ)の山中新太さんとは、
それ以来、連絡をとりあっていたそうで、ロシア軍の侵攻が始まって心配する彼に、
「日本に避難できますか」とメッセージが届いて、
山中さんが奔走し、彼の家に下宿しながら練習する日々が続いたそうです。
また、山中さんの母校で稽古に参加していた際、安治川親方(元関脇安美錦)の目に
留まったとのこと。
不断の努力に、幸運の女神がほほえんだのではないでしょうか。

大関昇進が確実といわれていて、楽しみですね。明後日、正式にまるそうです。
初優勝ともども、おめでとうございます!

安青錦新太という名前は、師匠の現役時代の名前から安と錦を、
ウクライナの国旗と自身の目の色から青を、
山中さんから新太をもらったというのはとても素敵ですね。

熱心に修練を積み、真剣勝負に挑む胸のうちには、つねに祖国への思いがあることは
想像に難くありません。
毎日、いえ、どんなときも、ウクライナへの強い思いがあるのだと思います。

北京オリンピックの直後、突然ロシアがウクライナに侵攻し、もう来年には
ミラノ・コルティナオリンピックが開催されようとしています。

大国が勝手な理屈をつけて始めた理不尽な戦争に、
別の大国が理不尽な和平案を提案しているという、非常に厳しい状況にあるウクライナ。
23日ジュネーブで行われた協議で、ウクライナはアメリカに対して、
ヨーロッパ各国と連携して和平案の修正を求めたと報じられていますが、
どうかうまくいきますようにと願ってやみません。

努力家で真摯な21歳の若き力士が、これからも上を目指して末永く活躍し、
国歌『ウクライナは滅びず』に歌われるように、ウクライナの栄光と自由は滅びず、
運命がふたたびウクライナに微笑みますように。
安青錦の未来に、そして、ウクライナの未来に幸あれと、心から祈ります。

戦火に散った球児たち〜県岐阜商と大伯父のお話2025年08月21日 14:25

猛暑の中、甲子園での熱戦が続いています。
岐阜生まれ、岐阜育ちの私にとって、県岐阜商業の活躍は嬉しいものでした。
横浜にも長く住んでいたので、準々決勝はどっちも頑張れ〜と言う気持ちもありながら、
亡き大伯父のことを思い出し、やっぱり岐阜を応援していました。
延長タイブレークの11回までもつれこむ大接戦の、ものすごい試合で、
最後に、スタンドから両校の選手たちに送られた万雷の拍手にも胸が熱くなりました。

県岐阜商が甲子園に初めて出場したのは1932年の選抜大会(当時は岐阜商業学校)。
翌年の春には初優勝、35年に二度目の全国制覇をしました。
夏の大会では、1936年の第22回大会で優勝を飾っています。

当時、野球部の応援会長だった大伯父は、浜松の中学野球のヒーロー松井栄造選手を
引き抜きました。松井選手は1935年の春から登場し、活躍しています。
素晴らしいピッチャーであり、バッターとしても一流。
大伯父の家には、松井選手のほかにも、野球部員が下宿していたので、
大勢の部員が出入りして、大伯母は彼らの母親代わりだったそうです。
今の県岐阜商と同じく、チーム力が抜群だったようです。素敵ですね。

松井栄造選手は、六大学野球ができる早稲田大学に進み、そこでもヒーローに。
けれども、1941年、太平洋戦争が始まると、野球界にも大学にも暗い影が落ちます。
やがて松井選手も出征。1943年5月、中国で戦死しました。
彼だけではなく、岐阜商が第22回大会で優勝したメンバー14人のうち、
あの戦争で5人が帰らぬ人となったそうです。

大伯父は1898年(19世紀!)生まれ。建築家で大勢の人に慕われていましたが、
子どもだった私や妹にもとても優しく、いつもおだやかで、笑顔を絶やしたことが
ありませんでした。
そんな大伯父でしたが、松井栄造さんを始め、岐阜商の球児たちの話をするときは
遠い瞳になりました。背が高い人だったし、眼鏡の奥でよく見えませんでしたが、
そのときにはいつも、うっすら涙を浮かべていた記憶があります。
あの遠い瞳は、大伯父が亡くなって何十年が過ぎた今も、忘れることができません。

県岐阜商の大躍進。終戦から80年を迎えたこの夏、大伯父も、松井選手たちも、
きっと空から見守り、エールを送っていたのではと感じています。

どの選手も素晴らしかったですが、身内に障害がある者として、やはり、
横山温大選手の活躍が、心に残りました。
生まれつき左手の指がないハンディを乗り越えて(人の何倍も努力して、様々な工夫をし
ーー右手のグラブで捕ってすぐグラブを外してボールを持ち替えて送球などーー
今の彼があるそうです)、笑顔でプレイする姿は本当に爽やかでした。
ヒットもすごいけど、準々決勝で横浜のライトへの大きなヒットを追いかけて
ジャンプして捕ったファインプレイや、今日の準決勝での犠牲フライも素晴らしかったです。

それにしても、残念なのは、今なら、大伯父の話をもっと深く聞いて、
少しは話し相手になれたかもしれないということ。
若くて考えなしだった頃の自分を、ちょっと情けなく思います。
せめて、こうして、少しずつなにか伝えられたらと思っています。
そして、第二次世界大戦で大勢の球児が戦場に行き、命を落としたことを、
しっかり覚えていようと思います。

☆  ☆  ☆

ネットで調べてみたら、早稲田大学の歴史館で、2012年の春の企画展として
「戦地に逝ったワセダのヒーロー松井栄造の24年」が催されていました。
知っていたら、行ったのですが……。24歳。本当に青春まっただなか。
遺書や銃痕の残るヘルメットも展示されていたそうです。

永遠の平和を誓い祈る日2025年08月15日 22:33



終戦から80年。
戦争を知る世代が少なくなるなか、戦争でなくなった全ての方、大切な方を失った全ての方、今なお後遺症で苦しんでいるすべての方に、心を寄せて、永遠の平和を祈ります。
310万人といわれる戦没者を慰霊する全国千戦没者追悼式で、石破首相は
「進む道を二度と間違えない。あの戦争の反省と教訓をいま改めて
深く胸に刻まなければなりません」と、「反省」という言葉を使いました。
式典での首相の式辞でこの言葉が使われたのは、2012年以来のことです。

「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」とは、ドイツのワイツゼッカー大統領が
敗戦40年目の1985年に連邦議会で行った演説の一節です。
戦争当時、今生きている人は子どもだったか、まだ生まれていなかったけれども、
先人が負の遺産を残したことは知っているべきであり、過去をしっかりと見つめた上で、
未来に進むべきだと訴えています。

戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しいといいますが、
ウクライナやガザの惨状を見ていると、本当にそうだと感じます。
内線が終わったシリアでも、難民たちが戻って無事に暮らせるようになるには
あと1年はかかるといわれているそうですし、アジアやアフリカにも各地に紛争地が
あります。
まずは戦争を始めないこと。
戦争の放棄をうたった憲法九条をしっかりと守っていかなくてはならないと痛感します。

強力に武装すれば国が守れるというのは幻想だと思います。
最初の一歩を踏み出してしまうと引き返せない。一般の市民が戦火に巻き込まれてしまいます。
今は、核という恐ろしい武器があります。一瞬で広島と長崎を破壊し、80年がたった
今でも原爆症で苦しむ人がいるという現実。現在の核兵器の力は当時の比ではありません。
一旦使われたら、どんなことになるか、想像するだけで恐ろしいです。

かつて、圧倒的な軍事力の差があったと言われる戦争に駆り出されていった若者たち。
母は9人兄弟の末っ子で、兄たちは海軍や陸軍に入隊し、姉は軍事工場に行っていました。
兄(私にとって伯父)の一人は戦死しています。面白い人だったそうで、会いたかったと
思います。
たぶん、私の世代は、直接身内から戦争の話を聞く最後の世代になるのかもしれません。
だとしたら、これから、その話を伝えていかなければならないと、戦後80年のいま、
ひしひしと感じています。
世界各地の戦争や紛争が、いっそうそういう思いに駆り立てるのだと思います。

タモリさんが、いまは戦後ではなく、新しい戦前だと言ったのはいつだったでしょうか。
その言葉に戦慄を覚えながらも、もしかしたらそうなのかも、と、ずっと感じています。
決して、そんなことになりませんようにと切に祈ります。
そして、戦争でなくなった全ての方、大切な方を失った全ての方、今なお後遺症で
苦しんでいるすべての方に、心を寄せて、永遠の平和を祈ります。

今日はまた、大好きな祖父の命日でもあり、私にとって、とても大切で忘れられない
日。お盆で帰ってきてくれていたかな。大きな愛のかたまりのような人だった祖父。
私が14歳のとき、亡くなった祖母のあとを追うように、膵臓がんであっという間に
旅立ってしまいました。
祖父にふたたび会う前に、世界の平和のために、小さなことでも、私にできることを
続けていきたいと、心に誓っています。

写真は昨日の名古屋の夕空。こんな美しい夕焼けは久しぶりで、終戦の日を前に、
とても胸にしみました。

アンジェラスの鐘と被爆クスノキ2025年08月09日 17:37

浦上天主堂は少しピンクがかった赤レンガの美しい教会です。
昔、家族旅行で長崎を訪れたとき、原爆で破壊されたとは思えないほど、長崎の空と大地と
ひとつになってたたずむ姿に胸を打たれました。
戦前、2つの鐘楼には、アンジェラスの鐘と呼ばれるフランス製の2つの鐘があったそうです。
80年前に原爆が投下されたとき、爆心地に近かった天主堂は壊滅的な被害を受けました。
鐘のひとつは、奇跡的に、ほぼそのままので見つかりましたが、
もうひとつは修復不可能なほど破壊されていたと聞きました。

それを復元した鐘が、先月アメリカから寄贈されました。長崎を訪問し、
失われた鐘のことを知って寄付を募ったのは、ジェームズ・ノーラン・ジュニア教授。
マンハッタン計画に関わった医師の孫にあたるそうで、運命の不思議さを感じます。
教授は、アメリカ各地を回り、キリシタン弾圧の苦難の歴史を経てようやく完成した
浦上天主堂が原爆によって破壊されたこと、戦後再建されたこと、人々の鐘への思いを伝え
たところ、600人余りのカトリック信者から寄付が集まったとのこと。
復元された鐘は、分断が深まる世界で、平和と希望の象徴となるようにとの願いをこめて、
あらたに「希望の聖カテリの鐘」と命名されたそうです。

そして、今日、原爆が炸裂した11時2分。80年の時を超えて2つそろった鐘が、
平和公園の鐘とともに鳴らされました。黙祷を捧げる耳に、その響きが聞こえてきて、
胸がいっぱいになりました。2つの鐘が共鳴した響きは、美しく荘厳でした。
あとで画像を見てみましたが、雨に濡れた浦上天主堂と復元された鐘が鳴る様子も
映っていました。

式典では、福山雅治さんの「クスノキ」の合唱もありました。
爆心地に近い2つの小学校の児童による合唱で、心にしみました。

あの日まで、山王神社の境内にそびえていた2本のクスノキは、浦上天主堂と同様に、
爆心地に近かったため、幹は裂け、枝葉を飛ばされ、枯れてしまうと思われたそうです。
けれども、被爆から2か月で奇跡的に新芽を芽吹かせました(長崎市のWebsiteでは
2か月、山王神社のWebsiteでは2年となっています)。
それが、どれほど当時の長崎の人々の胸に希望の灯をともしたか、それはもう、私の
想像を遥かにこえていることでしょう。
いま、どちらの木も、互いに枝をからめながら、天に向かって堂々とたたずむ姿を
見ながら、そんなふうに思いました。

先日、クローズアップ現代で見たのですが、福山さんは被爆二世で、17歳のころ、
父親が1年間がんで闘病した後、亡くなったそうです。病気に対して何もできない無力感、
虚無感がすごくあるなか、ふらりと立ち寄った山王神社のクスノキに、助けられたと
語っていました。それから、たびたびクスノキに会いにいったそうです。
お父さんのがんは、赤ちゃんのとき被爆したことに原因があるに違いありません。
福山さんやご家族の気持ちを思うと、言葉を失います。
そんな被爆者の方々が本当にたくさんいるわけですが、それぞれに大切な方がいて、
皆さんどんな気持ちだろうと思うと、胸がつまります。
本当に、長崎を最後の被爆地にしなければなりません。

福山さんは、自らのルーツを歌にしたいとずっと思っていたそうです。そして、
被爆クスノキをモチーフにした楽曲を作りたいと思い、メロディと「わが魂は」の歌詞は
ずっと心にあったそうですが、曲が完成したのはその24年後。
絶滅にひんした生き物に出会う番組のナビゲーターを務めたとき、「地球に生かされている」
と感じ、クスノキの立場で歌にできる、と思ったそうです。そこからは早かったとか。
そこからまた歳月を経て、平和祈念式典で歌われるまでに成長したクスノキの歌。
平和への強い願いとともに、ずっと歌い継がれて行くことと思います。

浦上天主堂の2つの鐘と、2本の被爆クスノキは、私たちに、決して戦争をしてはいけない、
決して核を用いてはならないと伝えてくれます。