41年目の結婚祝い ― 2025年10月15日 09:24
昨日、大学のアーチェリー部の仲間から同期女子宛てにメールがありました。
ちょっと報告したいことがあるとのタイトルに、なんだろうと思って開けると、
結婚祝いに私たちが贈ったNationalのオーブンレンジが41年も稼働したとのこと。
本当にびっくりしました。
最近スタートボタンの具合が不調でとうとう引退してもらうことになり
電気店でPanasonic(はい。今のパナは昔はNationalという名だったんです)の
店員さんに話したら、腰を抜かしたそうで。当然ですよね。
41年…! そんなに長い間、愛用してもらえて、嬉しかったです。
果報者のオーブンレンジ♡
後続もパナにしたそうで、本日、結婚祝いの品とはお別れだそうです。
彼女の結婚祝いにオーブンレンジを贈ったことは忘れていましたが、
同期で初めて新婚宅へおよばれしたとき、
美味しいビーフシチューを振る舞ってもらったのは、よく覚えています。
当時の私は、ビーフシチューはお店で食べるものであって、自分で作るなんて
発想、なかったので、いっそう感激しました。
すごく美味しいとみんなでいったら、良かった〜とほっとしたようにいい、
何時間もコトコト煮込んだと打ち明けてくれたのも記憶に残っています。
そんな一生懸命作ってくれて、美味しいはずです。食事は愛情ですね。
昨日のみんなの返信でわかったのですが、オーブンレンジを贈ったことは忘れていても
やはりビーフシチューのことは覚えているという仲間もいました。
当の彼女は、ビーフシチューのことは覚えていないそうで、
覚えていたことに、ありがとうとお返事をくれました。
先月から、たぶん猛暑の疲れだと思うけれど、末梢神経障害に加えて、
消えていた副作用が復活してきて(そんなことってあるのかな)、
味覚障害ーー口の中が不味くて痛かったり水が甘かったりーーに、低血圧のふらつきも
戻ってきて、今月検査なのになんだかなぁって思っていたところ、
思いがけず、心がぽかぽかするメールに、嬉しくなりました。
写真は、散歩した際に見かけた、雨上がりのオリーブ。
雨粒が宝石のようにきらきらしていました。
追悼〜ロバート・レッドフォード ― 2025年09月27日 16:10
天の川〜車山 ©️T.S.
先週、ロバート・レッドフォードが亡くなりました。
またひとり、きらめくスターが空に還って、地上が寂しくなりました。
スターというだけではおさまらない、大きな存在だったと思います。
優れた俳優であり、アカデミー賞監督であるだけではなく、ユタ州の美しい自然の中に、
サンダンスインスティチュートを設立。
ヒットが絶対条件の、大きなスタジオが牛耳るハリウッドでは取りこぼされてしまう
小さな優れた脚本や、独立系の映画人、若者たちをのびのび育てるラボです。
そして、そこで生まれた作品を発信するため、サンダンス映画祭を主催しました。
いまではすっかりメジャーな映画祭になりましたね。
環境活動家でもあり、社会的弱者の擁護者でもあり、まさにアメリカの良心。
今の世の中に本当に必要な人だったと痛感します。
俳優としてのキャリアも本当に華やかですが、初めて観たのは『明日に向かって撃て!』。
公開当時は子どもだったので、テレビ放送でのことです。
主題歌の「雨にぬれても」と、共演のポール・ニューマン、
そして、キャサリン・ロス演じるヒロインが印象的でした。キュートな目元が私の友だちに
そっくりで驚いたし(彼女いまでも似ています)、それゆえ、親しみも感じました。
ラストシーンのストップモーションも印象に残っています。
レッドフォードを偲んで観てみようと思う人がいるといけないので、ネタバレしませんが
名シーンだと思います!
私の通った岐阜の小中学校は、保護者同伴でないと映画館は出入り禁止でしたので、
やはりのちにテレビで観た作品ですが、『華麗なるギャツビー』は、美しく悲しい物語で
心に残っています。真っ白なスーツが決まっていて、当時話題になりました。
(父と叔父が真似して白いスーツを着て喜んでました。娘としては恥ずかしかったです。)
ディカプリオのギャツビーも観ましたが、趣が異なって、どちらもそれぞれ良いです。
そして、初めて映画館で観たレッドフォードの映画は、『スティング』でした。
東京に引っ越した高校一年のとき、ロードショーから渋谷の名画座にまわってきた際、
友だちと観に行きました。
昔はロードショー落ちの作品が、二本立て三本立てで、公開から随分遅れてですが
名画座で上映されていたのです。一本の料金で2本か3本観られるので学生の強〜い味方。『スティング』は『ペーパームーン』との組み合わせだったかな(この記憶大いに怪しい)。
田舎娘には、友だちと二人で映画を見に行くというだけで大冒険で、
それもあってか、『スティング』も強烈なインパクトがありました。
作品賞を含め、音楽賞などアカデミー賞7部門に輝きましたが、その音楽の軽やかで
楽しいこと。また、何章かで構成されていて、そのタイトルもいちいちおしゃれ。
仇討ちの相手を大仕掛のトリックで騙すという物語も、ドキドキワクワク面白く、
忘れられない作品です。
これも、ポール・ニューマンとの共演で、この二人のケミストリーはほんと抜群!
(生涯の友人だったそうです。お互いにとってなんて幸せなことでしょう。)
レッドフォードが監督をすると聞いたときには本当にびっくりしたものです。
(そして、その初めての作品『普通の人々』で、アカデミー監督賞をとったのですから、
さらにびっくり! 作品賞、助演男優賞、脚色賞も受賞しています。)
一見普通に見えるアメリカの家庭を描いた作品ですが、衝撃的な映画でした。
でも、とても心に染みて、切ないけれど、何度も観たいと思わせる秀作です。
(ただし、元気なときに観たほうがよい映画ですね。重い作品でもあるので。)
これを最初の監督作に選んだレッドフォードは、繊細で、誠実で、本当に素敵な人だと
感じ入りました。
冒頭の朝食のシーンが、まず、ガツンときます。
母親が、次男のためにフレンチトーストを焼くのですが、彼が食欲がなくていらないと
いったとたん、表情ひとつ変えずに、流しのディスポーザーに落として、ガーって
砕いてしまう。それだけで、母と息子の間の緊張感、家庭の不穏な空気が伝わってきます。
次男のティモシー・ハットン(若くしてアカデミー助演男優賞受賞)がとてもよいのですが、
監督として彼をキャストした選択眼も素晴らしいです。
父親はドナルド・サザーランド。(『24』のキーファーのお父さんです。)
家族の崩壊。そして、ラストのささやかな希望。
静かに流れるパッヘルベルのカノンも、胸に染みます。
『ナチュラル』『大統領の陰謀』『愛と哀しみの果て』など、名作が多くて
書くのに迷いますが、『リバー・ランズ・スルー・イット』は外せないでしょう。
こちらも監督作で、ある家族の哀切な物語。
モンタナの大自然のなか、厳格な父親と、性格の違う兄弟の確執と絆が描かれます。
のどかなフライフィッシングのシーンが夢のように美しく、脳裏に焼き付いています。
人は人を(家族を、だったかな…)理解できないかもしれないが、愛することはできる。
そんな言葉に、その通りだな、としみじみと思いました。
自由奔放な次男を若きブラッド・ピットが演じていますが、レッドフォードに
そっくりだと、当時話題になったものです。
のちに、『スパイゲーム』で、スパイの師匠(レッドフォード)と新人(ピット)の
役柄で共演しますが、この作品も好きでした。
ラスト、緑のポルシェに乗って颯爽と駆けてゆくレッドフォードのかっこいいこと!
最後に、メジャーではないけれど、個人的に好きな作品を2つ。
『ホットロック』と『スニーカーズ』。
『ホットロック』は犯罪コメディ映画というところでしょうか。古い作品で、
子どものころテレビで観ただけなので、内容はほとんど覚えていません。が、
やはりラストの(こちらは歩いて去ってゆく)レッドフォードがなんとも楽しげで、
妙に心に残っています。彼、泥棒なんですけどね。
(良い子の皆さん、真似しないでね。)
そして『スニーカーズ』。
もとハッカー(レッドフォード)が率いるのは、企業のセキュリティの弱点を見出すべく、
実際にハッキングして指摘し、報酬を得ている合法的なハイテク集団。
彼らと、世界を揺るがす究極の暗号解読機をめぐる、ドキドキハラハラの物語。
1992年の作品で、当時はハッカーを描くこと自体、あまりなかったと思います。
それゆえ、とても新鮮で面白かったし、今は亡きリヴァー・フェニックスが
コンピューターオタクを演じたのも、すごく楽しかったです。
冒頭の天の川の写真は、従兄がこの夏、送ってくれたものです。
霧ヶ峰の車山で撮影したそうです。無数の星のきらめきが、大スターを偲ぶのに
ふさわしいと思えて、アップしてみました。
いまごろ、ポール・ニューマンやリヴァーくんとおしゃべりしているのかな。
亡くなったお子さんたちにも会えていますね。
向こうの世界でゆっくりしてくださいという気持ちと同時に、地球や社会のことを案じて
活動していた彼に、時にはこの下界を見守ってほしいと思ってしまいます。
最後に、サンダンス・インスティテュートで彼の追悼を特集しているので、
そちらを載せておきますね。
↓↓
『ユリディケ』相関図の原案です ― 2025年09月15日 19:23
『ユリディケ』の相関図、少しずつ進んでいます。
こちらはデザイナーの畠山さんにお送りした原案。(誤字があって恥ずかしいです^^;)
細かいですが、クリック拡大でなんとなく雰囲気が伝わるでしょうか。
やりとりするうちに、この説明はいらないな、と思ってカットしたり、
畠山さんから素敵なアイデアを出していただいて、何か所か変更していますが、
おおよそはこんな感じ。
四角いアイコンはイラスト入りになります。八角形のはイラストなしです。
イラストは先月末にようやく仕上げました。(目と体調のことがあり、前に予告した通り
4部作のイラストを少し変えただけのもある超省エネ型。ユナの顔はルシタナのまま、
グルバダもダイロスのままーー少し首の角度を変えたり髪をさわったりしましたがーー
です。でも、あんなに、二度と描くものか、と思っていたわりには、とても楽しい
仕事でした。いえ、でも、ほんと、もう二度とキャラの絵は描かないと思います!)
その手描きの絵を畠山さんが電子的に描き直して、相関図が完成し、さらにそれを、
荒川ディレクターが『ユリディケ』のWebサイトに組み込むという手順を踏むので、
公開にはまだ時間がかかります。いましばらくお待ちくださいませ🙇♀️
名古屋は猛暑が戻ってきて、今日も猛烈に暑かったですが(明日も暑そうです)、
先日から各地で続く雨や竜巻の被害も深刻です。
被災された皆さまには、心よりお見舞い申し上げます。
岐阜でたびたび水害に遭っているので(実家は土地が低くすぐ横を川につながる
側溝が流れていました)、そのときの恐ろしさがよみがえってきます。
どうかあまり被害がありませんようにと祈るばかりです。
どうぞ引き続き、くれぐれも気をつけてくださいね。
虫愛づる姫君 in ダーウィンが来た! ― 2025年09月05日 16:07
今朝の名古屋は台風の影響で横殴りの雨が降りました。なんとか無事通り過ぎましたが、
各地で大きな被害が出ています。まだこれからというところもあると思います。
どうぞくれぐれも気をつけてくださいね。
ところで、友だちのお嬢さんで、幼い時から虫が大好きだった弓女(ゆめ)ちゃんのことは
2020年1月の記事「虫愛づる姫君、熱き思いを語る」で紹介しました。
名古屋に講演に来て、虫と植物の多様性と進化の物語を熱く語ってくれて、今も心に
残っています。
その弓女ちゃんの研究している生き物が、7日夜の「ダーウィンが来た!」に登場すると
友だちに教えてもらいました。弓女ちゃんも出るんじゃないでしょうか。楽しみ〜。
(可愛い赤ちゃんだった弓女ちゃんが…と、親戚のおばちゃんのような心境です!)
「1000年の都 京都の生き物ワールドご案内!」というタイトルで、弓女ちゃんの
パートは、京都のお寺の苔にも小さな命が宿っているよ、というエピソード。
その他、境内の森を飛び交うムササビや、鴨川のオオサンショウウオ(そんなところに
住んでいるとは知らなかった)も登場するみたいです。
動物も虫も植物も鉱物も人も、みんな地球の一部。大切な存在です。
その中で、環境を壊しているのは人だけではないでしょうか。
知恵を絞り、力を合わせて、住みやすい世界に変えていきたいですね。
猛暑が身体にこたえていますが、ダーウィンを見て元気をもらおうと思います!
追記:
弓女ちゃん、しっかり登場していました♡
5年前と変わらずチャーミングで、華奢で、でも、お寺の急斜面を軽々と歩いて苔を
探す姿は、とっても頼もしかったです。大好きなことを仕事にして、嬉しそうに、
まっしぐらに進む弓女ちゃん。これからも応援しています。
(博士と紹介されていたけれど、私の中ではやっぱり可愛い弓女ちゃんだなぁ。)
戦火に散った球児たち〜県岐阜商と大伯父のお話 ― 2025年08月21日 14:25
猛暑の中、甲子園での熱戦が続いています。
岐阜生まれ、岐阜育ちの私にとって、県岐阜商業の活躍は嬉しいものでした。
横浜にも長く住んでいたので、準々決勝はどっちも頑張れ〜と言う気持ちもありながら、
亡き大伯父のことを思い出し、やっぱり岐阜を応援していました。
延長タイブレークの11回までもつれこむ大接戦の、ものすごい試合で、
最後に、スタンドから両校の選手たちに送られた万雷の拍手にも胸が熱くなりました。
県岐阜商が甲子園に初めて出場したのは1932年の選抜大会(当時は岐阜商業学校)。
翌年の春には初優勝、35年に二度目の全国制覇をしました。
夏の大会では、1936年の第22回大会で優勝を飾っています。
当時、野球部の応援会長だった大伯父は、浜松の中学野球のヒーロー松井栄造選手を
引き抜きました。松井選手は1935年の春から登場し、活躍しています。
素晴らしいピッチャーであり、バッターとしても一流。
大伯父の家には、松井選手のほかにも、野球部員が下宿していたので、
大勢の部員が出入りして、大伯母は彼らの母親代わりだったそうです。
今の県岐阜商と同じく、チーム力が抜群だったようです。素敵ですね。
松井栄造選手は、六大学野球ができる早稲田大学に進み、そこでもヒーローに。
けれども、1941年、太平洋戦争が始まると、野球界にも大学にも暗い影が落ちます。
やがて松井選手も出征。1943年5月、中国で戦死しました。
彼だけではなく、岐阜商が第22回大会で優勝したメンバー14人のうち、
あの戦争で5人が帰らぬ人となったそうです。
大伯父は1898年(19世紀!)生まれ。建築家で大勢の人に慕われていましたが、
子どもだった私や妹にもとても優しく、いつもおだやかで、笑顔を絶やしたことが
ありませんでした。
そんな大伯父でしたが、松井栄造さんを始め、岐阜商の球児たちの話をするときは
遠い瞳になりました。背が高い人だったし、眼鏡の奥でよく見えませんでしたが、
そのときにはいつも、うっすら涙を浮かべていた記憶があります。
あの遠い瞳は、大伯父が亡くなって何十年が過ぎた今も、忘れることができません。
県岐阜商の大躍進。終戦から80年を迎えたこの夏、大伯父も、松井選手たちも、
きっと空から見守り、エールを送っていたのではと感じています。
どの選手も素晴らしかったですが、身内に障害がある者として、やはり、
横山温大選手の活躍が、心に残りました。
生まれつき左手の指がないハンディを乗り越えて(人の何倍も努力して、様々な工夫をし
ーー右手のグラブで捕ってすぐグラブを外してボールを持ち替えて送球などーー
今の彼があるそうです)、笑顔でプレイする姿は本当に爽やかでした。
ヒットもすごいけど、準々決勝で横浜のライトへの大きなヒットを追いかけて
ジャンプして捕ったファインプレイや、今日の準決勝での犠牲フライも素晴らしかったです。
それにしても、残念なのは、今なら、大伯父の話をもっと深く聞いて、
少しは話し相手になれたかもしれないということ。
若くて考えなしだった頃の自分を、ちょっと情けなく思います。
せめて、こうして、少しずつなにか伝えられたらと思っています。
そして、第二次世界大戦で大勢の球児が戦場に行き、命を落としたことを、
しっかり覚えていようと思います。
☆ ☆ ☆
ネットで調べてみたら、早稲田大学の歴史館で、2012年の春の企画展として
「戦地に逝ったワセダのヒーロー松井栄造の24年」が催されていました。
知っていたら、行ったのですが……。24歳。本当に青春まっただなか。
遺書や銃痕の残るヘルメットも展示されていたそうです。
永遠の平和を誓い祈る日 ― 2025年08月15日 22:33
終戦から80年。
戦争を知る世代が少なくなるなか、戦争でなくなった全ての方、大切な方を失った全ての方、今なお後遺症で苦しんでいるすべての方に、心を寄せて、永遠の平和を祈ります。
310万人といわれる戦没者を慰霊する全国千戦没者追悼式で、石破首相は
「進む道を二度と間違えない。あの戦争の反省と教訓をいま改めて
深く胸に刻まなければなりません」と、「反省」という言葉を使いました。
式典での首相の式辞でこの言葉が使われたのは、2012年以来のことです。
「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」とは、ドイツのワイツゼッカー大統領が
敗戦40年目の1985年に連邦議会で行った演説の一節です。
戦争当時、今生きている人は子どもだったか、まだ生まれていなかったけれども、
先人が負の遺産を残したことは知っているべきであり、過去をしっかりと見つめた上で、
未来に進むべきだと訴えています。
戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しいといいますが、
ウクライナやガザの惨状を見ていると、本当にそうだと感じます。
内線が終わったシリアでも、難民たちが戻って無事に暮らせるようになるには
あと1年はかかるといわれているそうですし、アジアやアフリカにも各地に紛争地が
あります。
まずは戦争を始めないこと。
戦争の放棄をうたった憲法九条をしっかりと守っていかなくてはならないと痛感します。
強力に武装すれば国が守れるというのは幻想だと思います。
最初の一歩を踏み出してしまうと引き返せない。一般の市民が戦火に巻き込まれてしまいます。
今は、核という恐ろしい武器があります。一瞬で広島と長崎を破壊し、80年がたった
今でも原爆症で苦しむ人がいるという現実。現在の核兵器の力は当時の比ではありません。
一旦使われたら、どんなことになるか、想像するだけで恐ろしいです。
かつて、圧倒的な軍事力の差があったと言われる戦争に駆り出されていった若者たち。
母は9人兄弟の末っ子で、兄たちは海軍や陸軍に入隊し、姉は軍事工場に行っていました。
兄(私にとって伯父)の一人は戦死しています。面白い人だったそうで、会いたかったと
思います。
たぶん、私の世代は、直接身内から戦争の話を聞く最後の世代になるのかもしれません。
だとしたら、これから、その話を伝えていかなければならないと、戦後80年のいま、
ひしひしと感じています。
世界各地の戦争や紛争が、いっそうそういう思いに駆り立てるのだと思います。
タモリさんが、いまは戦後ではなく、新しい戦前だと言ったのはいつだったでしょうか。
その言葉に戦慄を覚えながらも、もしかしたらそうなのかも、と、ずっと感じています。
決して、そんなことになりませんようにと切に祈ります。
そして、戦争でなくなった全ての方、大切な方を失った全ての方、今なお後遺症で
苦しんでいるすべての方に、心を寄せて、永遠の平和を祈ります。
今日はまた、大好きな祖父の命日でもあり、私にとって、とても大切で忘れられない
日。お盆で帰ってきてくれていたかな。大きな愛のかたまりのような人だった祖父。
私が14歳のとき、亡くなった祖母のあとを追うように、膵臓がんであっという間に
旅立ってしまいました。
祖父にふたたび会う前に、世界の平和のために、小さなことでも、私にできることを
続けていきたいと、心に誓っています。
写真は昨日の名古屋の夕空。こんな美しい夕焼けは久しぶりで、終戦の日を前に、
とても胸にしみました。
アンジェラスの鐘と被爆クスノキ ― 2025年08月09日 17:37
浦上天主堂は少しピンクがかった赤レンガの美しい教会です。
昔、家族旅行で長崎を訪れたとき、原爆で破壊されたとは思えないほど、長崎の空と大地と
ひとつになってたたずむ姿に胸を打たれました。
戦前、2つの鐘楼には、アンジェラスの鐘と呼ばれるフランス製の2つの鐘があったそうです。
80年前に原爆が投下されたとき、爆心地に近かった天主堂は壊滅的な被害を受けました。
鐘のひとつは、奇跡的に、ほぼそのままので見つかりましたが、
もうひとつは修復不可能なほど破壊されていたと聞きました。
それを復元した鐘が、先月アメリカから寄贈されました。長崎を訪問し、
失われた鐘のことを知って寄付を募ったのは、ジェームズ・ノーラン・ジュニア教授。
マンハッタン計画に関わった医師の孫にあたるそうで、運命の不思議さを感じます。
教授は、アメリカ各地を回り、キリシタン弾圧の苦難の歴史を経てようやく完成した
浦上天主堂が原爆によって破壊されたこと、戦後再建されたこと、人々の鐘への思いを伝え
たところ、600人余りのカトリック信者から寄付が集まったとのこと。
復元された鐘は、分断が深まる世界で、平和と希望の象徴となるようにとの願いをこめて、
あらたに「希望の聖カテリの鐘」と命名されたそうです。
そして、今日、原爆が炸裂した11時2分。80年の時を超えて2つそろった鐘が、
平和公園の鐘とともに鳴らされました。黙祷を捧げる耳に、その響きが聞こえてきて、
胸がいっぱいになりました。2つの鐘が共鳴した響きは、美しく荘厳でした。
あとで画像を見てみましたが、雨に濡れた浦上天主堂と復元された鐘が鳴る様子も
映っていました。
式典では、福山雅治さんの「クスノキ」の合唱もありました。
爆心地に近い2つの小学校の児童による合唱で、心にしみました。
あの日まで、山王神社の境内にそびえていた2本のクスノキは、浦上天主堂と同様に、
爆心地に近かったため、幹は裂け、枝葉を飛ばされ、枯れてしまうと思われたそうです。
けれども、被爆から2か月で奇跡的に新芽を芽吹かせました(長崎市のWebsiteでは
2か月、山王神社のWebsiteでは2年となっています)。
それが、どれほど当時の長崎の人々の胸に希望の灯をともしたか、それはもう、私の
想像を遥かにこえていることでしょう。
いま、どちらの木も、互いに枝をからめながら、天に向かって堂々とたたずむ姿を
見ながら、そんなふうに思いました。
先日、クローズアップ現代で見たのですが、福山さんは被爆二世で、17歳のころ、
父親が1年間がんで闘病した後、亡くなったそうです。病気に対して何もできない無力感、
虚無感がすごくあるなか、ふらりと立ち寄った山王神社のクスノキに、助けられたと
語っていました。それから、たびたびクスノキに会いにいったそうです。
お父さんのがんは、赤ちゃんのとき被爆したことに原因があるに違いありません。
福山さんやご家族の気持ちを思うと、言葉を失います。
そんな被爆者の方々が本当にたくさんいるわけですが、それぞれに大切な方がいて、
皆さんどんな気持ちだろうと思うと、胸がつまります。
本当に、長崎を最後の被爆地にしなければなりません。
福山さんは、自らのルーツを歌にしたいとずっと思っていたそうです。そして、
被爆クスノキをモチーフにした楽曲を作りたいと思い、メロディと「わが魂は」の歌詞は
ずっと心にあったそうですが、曲が完成したのはその24年後。
絶滅にひんした生き物に出会う番組のナビゲーターを務めたとき、「地球に生かされている」
と感じ、クスノキの立場で歌にできる、と思ったそうです。そこからは早かったとか。
そこからまた歳月を経て、平和祈念式典で歌われるまでに成長したクスノキの歌。
平和への強い願いとともに、ずっと歌い継がれて行くことと思います。
浦上天主堂の2つの鐘と、2本の被爆クスノキは、私たちに、決して戦争をしてはいけない、
決して核を用いてはならないと伝えてくれます。
広島から希望の光を ― 2025年08月06日 21:39
子どものころ、学校で、喧嘩はいけないと教わりました。
暴力はいけない。問題があれば話し合いで解決するべきだと。
それなのに、世界では戦争があり、暴力が溢れている。
わけがわかりませんでした。大人という存在が不思議でした。
広島に原爆が投下され、今日で80年。
日本被団協がノーベル平和賞を受賞してから、初めての原爆の日です。
それなのに、世界の動きは核軍縮から逆行し、終末時計をひたすら進めているーー
唯一の被爆国である日本ですら、核兵器を肯定する言論が飛び交っています。
今朝は、出かける前に、平和記念公園での平和記念式典を見ました。
テレビ画面には、こう刻まれた原爆死没者慰霊碑が何度も映しだされました。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」
今の世界を見たら、安らかに眠れないに違いないです。私たちの平和は、
原爆で亡くなった方の上に(原爆だけでなく、戦争で亡くなった方、あるいは
生き延びてもそれでつらい思いをされた方、今なおされている方々の上に)
成り立っているというのに。
それは、忘れてはならないことです。
奇遇ですが、式典が終わったあと出かけたのは、広島在住の幼なじみに会うためでした。
夏休みで実家に帰っている彼女が、宝塚に住むもうひとりの幼なじみとともに、
名古屋に来てくれたのです(心優しい二人は、去年がんに罹患した私のことを心配して、
私が会える状態まで戻るのを待って、会いに来てくれたのです)。
地下鉄に乗りながら、その広島の幼なじみを訪ねて、広島に行ったときのことを
思い出していました。
原爆記念館や平和公園を訪れたあと、当時、静岡から広島に越した彼女は
二人のお子さんの子育て真っ只中だったのですが、こんな話をしてくれたのです。
静岡では大きな地震に備えて、防災教育が当たり前だったけれど、
広島では平和教育が当たり前で、小学校からとても熱心に教わるのだと。
記念式典で、毎夏、子どもたちが平和への誓いを読みますが、いつもとてもしっかり
しているのは、その教育のたまものでしょうか。
もちろん、家族や親族に、被爆した方や、二世の方がいる子どもたちも多いでしょうから
それもあるかもしれません。
ただ、現在では、戦後80年を経て、被爆者の数が減ってきています。
母の友人にも、広島出身で被爆者の方がいましたが、数年前に亡くなりました。
いずれは、ひとりもいなくなってしまう時代が来るということです……。
先月来日した、ノーベル委員会のフリードネス委員長の言葉が胸に響きます。
「われわれは現在、不安定な核の時代に突入する瀬戸際にある。そのような状況だからこそ
核兵器の実態を記憶するために被爆者が行ってきた活動は、世界にとって重要であり、
世界が必要としている光だ」
ノーベル委員会が受賞者の国を訪れるのは、今回が初めてだそうです。
それだけ特別のこと、それだけ、平和への思いが強い、ということ、そして、それだけ
今の世界に危機感を覚えているということだと感じます。
フリードネス委員長がいうその「光」を消さないために、私たちが、次の世代が、
被爆者に代わって、核兵器がいかに非人道的な兵器であるかを伝えていかなくてはと
強く思います。
そのときに、広島の平和教育が、とても意味を持つのではないでしょうか。
たとえば、私はこんな想像をします。
広島や長崎だけでなく、日本中で平和教育をしたらどうだろう、と。
だって、「日本って戦争してたんですか?」という大学生がいる時代なのですから
(二人の先生から直接聞いた話です!)、戦争の加害の歴史も含めて、しっかりと。
日本中の子どもたちが平和について考え、今度はそれを、世界中の学校に行って、
子どもたち自身が授業を行い、意見を交換し、交流を図る。
そして、日本の子どもたちに教わった世界の子どもたちが、同じ国の学校や、別の国の
学校に行って、授業をする。
それによって、未来を担う子どもたちが変われば、きっと世界は変わる。
戦争ばっかりする大人に代わって、子どもたちが世界平和を先導していく。
そんなふうに、広島から、日本から、希望の光を世界に発信することは、
決して夢物語ではなく、現実的にできることです。そう信じています。
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